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第二章
4
純白の花嫁衣装に身を包み、シリアナは鏡台の前に座っている。
「お綺麗ですわ」
後ろに立った痩せ気味の侍女が、シリアナの頭に仕上げの白い薄布を被せて言う。
オードラン公爵家のお仕着せを身につけた彼女は、大部分が白くなってしまた髪を一筋の後れ毛もなく後頭部の上に丸くまとめていた。
彼女の名はロラ。オードラン公爵家に嫁したマリウスの母につきしたがい、公爵家へとやってきた女性だ。
「マリウス様もやっとご結婚なされる気になって、安心いたしました」
ロラはシリアナに被せた薄布の縁を軽く摘んでは放し、形を整えている。鏡に映ったロラの顔が、目尻の皺を深くして嬉しそうに笑っていた。
「マリウス様はもう、ご結婚はすっかりあきらめていらっしゃるものと思っておりました」
無邪気に喜ぶロラの顔を鏡越しに見つめ、シリアナは閉じた唇をきゅっと結ぶ。
周囲から望まれた結婚ではない。
マリウスが皇帝にシリアナを望んだ時、甥エリクをマリウスの養子に迎え、オードラン公爵家の跡継ぎとすることが条件だったと聞いた。
オードラン公爵家の祖は、第二代皇帝グレゴワールの弟だったと言う。
敗戦国の女の血が、由緒正しいオードラン公爵家に受け入れるはずがないのは当然だった。
「まあ、まあ、花嫁がそんなに怖い顔をなさって。緊張なされるのはわかりますが、今日は女性にとって生涯で最も忘れ得ぬ日となるのですから、もっと幸せそうな顔をなさいませ。その方がマリウス様もお喜びになるに違いありません。なにせマリウス様ご自身が、貴女様との結婚を望まれたのですよ」
言ってロラが、シリアナの両肩に手をのせる。
「結婚式の主役は花嫁と決まっています。もっと胸を張って堂堂となさいませ。マリウス様にこんなに美しい女性を妻にできるなんて、自分はなんて幸せものなんだと思わせないといけません」
ロラはシリアナの頬に自身の頬をよせ、自らが着飾ったシリアナの出来を見てほほ笑んだ。
「貴女様がこちらのお屋敷にいらっしゃった翌日、二十日後に結婚式だとマリウス様がおっしゃられて、突然のことで衣装はどうしようかと悩みましたが、コレット様の婚礼衣装がぴったりでよかった。いくら陛下にお許しをいただこうとも、神の前で誓わなければ、自然に認められた夫婦とはもうせませんものね」
シリアナは椅子に座った自分の体を見下ろした。
袖も肩紐もない前身頃の上の部分は、中心が一番高くなる形でゆるやかに湾曲し、胸元を鎖骨の下まで覆っている。長いスカートの部分はゆったりと襞を描き、シリアナの身長の倍はある裳裾をひいていた。
ドレスは純白の絹地の上に、目の細かい透布を重ねてつくられていた。透布には象牙色の糸で、野菊とその葉をかたどったの模様が一面に刺繍されている。
頭から足下までを覆う薄布の縁にもドレスと同色の糸で、野菊の模様が刺繍されていた。
スカートの部分はあまり膨れ上がらずにすとんと下に落ちている。華美な花嫁衣装ではなかったが、すっきりとした線形の意匠から品の良さが漂うドレスだった。
「皇女の方方は徽章に花の模様を用いるものですが、コレット様は野菊をお使いでした。ご結婚のお祝いにと、当代第一と言われる職人に皇帝陛下直直に申しつけて、この衣装をご用意されたのですよ。
マリウス様のご結婚の知らせを受けたコレット様から、ぜひにこの衣装を使って欲しいとお手紙をいただきました」
「―そう。わたくしを受け入れてくださって、ありがたいことね。でも、今日の式にはいらっしゃらないのでしょう?」
「ええ。一昨日早馬が参りまして、エリク様が熱を出されたとか。看病のためこちらへはいらっしゃらにとのことでした。夫であったクロヴィス様が亡くなって以来、コレット様は領地から一度もお出になったことはありません。わたくしももう何年もお会いする機会をいただくことがなくて、久しぶりにお会いできると思っておりましたのに残念ですわ」
ロラがあからさまにため息をついた。
「あなたはオードラン公爵夫人のことを随分と慕っているようね」
鏡の中のロラの顔を見ながら、シリアナは言った。
「当然です。お優しくて美しい、愛情深くとても慈愛に満ちたお心をお持ちの方で、あんなすばらしい方、そうはいらっしゃいません。この屋敷の誰もが、いえ、一度でもお会いしたことのある誰もがお慕いもうしあげておりますわ」
「そう」
言ってシリアナは、一度だけ入ったマリウスの書斎を思い出した。
南向きの書斎は、扉を入った反対側がすべて窓となっていた。昼間緞帳を開け放っている時に訪れたため、開放感があった。
寄木細工の床はよく磨かれ、飴色に輝いていた。窓があるのとは違う三方の壁は、ぎっしりと本のつめられた天井まで届く本棚で覆われていた。桃花心木で造られた本棚は、年代を経て鈍く焦げ茶色に輝き、部屋全体に重厚感を与えていた。
窓を背に置かれた机のすぐ後ろの柱に、古代ヘルク風の、上位五分の一ほどを外側に折り返して体にまきつけた白い布を、左右の肩でブローチでとめ、落ちてしまわないように腰にまいた紐で固定した、ゆったりとした衣装を身にまとった女性の姿を描いた肖像画がかけられていた。
その絵に描かれた女性は、斜め横を向いて立っていた。彼女はわずかに顔をうつむけ、正面に向け艶かしく腰をひねっていた。彼女の結い上げられていない黄金色の髪は豊かに波打ちながら、白鳥のように細く長い首の後ろを隠し、背の中程まで流れていた。彼女は左手を腿のあたりに置き、衣装の裾を軽くつまんで持ち上げていた。右手は肘を軽く曲げて前へ出し、掌を上へ向け、親指と人差し指と中指で一輪の野菊を縦にして持っていた。
その絵の中で最も特徴的なのは、伏し目がちにこちに向けられた彼女の紫水晶色の瞳だった。
紫水晶色の瞳には、長い睫毛の影がかかっている。紫水晶色の瞳は穏やかさと慈愛に満ち満ちていて、絵の前でいつまでも彼女に見つめられていたい、そんな気分にさせられる。
部屋に入るなりシリアナは、その絵に目をとめ立ちすくんでしまった。
整った顔立ちには表情がなく、彼女の感情は伺えない。その中で紫水晶色の瞳だけが唯一、描かれた女性の性格を表していた。
「何か用ですか?」
マリウスに声をかけられはっとする。
シリアナは、女性の肖像画のちょうど下、書斎の大きな机の椅子に座っていたマリウスに視線を向けた。
「はい。お渡ししたいものがあって参りました。お邪魔でしたでしょうか」
筆置きに置かれた筆と、マリウスの前に広げられた便せんを見て訊く。
「いいえ。貴女の訪れならいつでも大歓迎です。それで、私に渡したいものとは」
「はい」
シリアナは頷いて、マリウスの座る机の前までいく。
マリウスの前に手を差し出し、拳をつくっていた右手を開いた。
「これは?」
マリウスはゆったりと椅子に腰掛け直すと、体の横に肘を張り、胸の前で両手を組んで訊いてきた。
シリアナの掌には、オオカミの牙でつくられた首飾りが載せられている。マリウスに初めて抱かれた部屋を後にするときに見つけ、持って出た。こびりついた汚れは拭き取り綺麗にし、紐は新しいものに取り替えた。
「お守りです。シリン高原に住む人人はみな、オオカミとシラールの民はシーリーン女神の子供であり、兄弟だと信じています。人は火をつかい家畜を飼うことを覚え、自然から離れる道を選びました。オオカミは獣として自然の中にとどまり、シリン高原の北にある山脈の中でも最も高い山、カムル山の頂におわすシーリーン女神の使者として、世界とシーリーン女神をつなぐ役割をしているのだと言います。
ですがオオカミは家畜を襲います。シラールの民は天幕のそばでオオカミを見つけるとすぐに殺します。その後でオオカミの皮をはぎ、体は天幕から少し離れた場所にさらし、空を自由に飛び回る禿鷲に食べさせることで、シーリーン女神の下までオオカミの魂を運んでもらいます。
オオカミの遺体を葬儀場に持っていく前に、遺体から一番大きな牙だけをとっておき、その根元に部族に伝わる文様を彫り、風の巫女に祝福を与えてもらいます。それを常に身に付けることで、身近にシーリーン女神と自然の存在を感じ、お守りとするんです。これは代代家族に受け継がれます。わたしはこれをバズド族が滅びた晩、婚約者から受け取りました。
これは、わたしにとってはわたしの出自をあらわす大切な品です。マリウス様はお嫌かもしれませんが、今はマリウス様に持っていていただきたいと思っています。これから先の人生を、わたしはマリウス様の妻としてマリウス様に捧げる覚悟です。これはわたしのその心をマリウス様にしめす誓いの品です」
「私と家族になってもらえる、そういうことですか?」
背もたれに深く体預け、組んだ両手はそのままに、肘掛に肘をのせ、マリウスが見上げてくる。
「はい」
シリアナは頷いた。
「では、喜んで受け取りましょう」
言ってマリウスは、シリアナの掌からオオカミの牙の首飾りを取り上げ、自らの首にかけた。
「これを貴女だと思って大切にします」
首飾りにつけられたオオカミの牙を親指と人差し指で触りながら、マリウスが言った。
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
シリアナは一礼し、部屋を出るため踵を返そうとした。
「待ってください」
マリウスが呼びとめる。
「本来であれば結婚式の後に渡すべきものなのでしょうが、貴女がわたしに私と夫婦になるという心をしめしてくれたのです。私からも誓いをしなければ不公平というものでしょう。今、私が誰に手紙を書いていたかわかりますか?」
シリアナはマリウスの前に広げられた便せんをちらりと見る。細かく文字が書かれているのは見えるが、シリアナの場所からでは何が書いてあるのかまで判別することはできない。シリアナは首を振った。
「義姉上に手紙を書いていたところです。貴女との結婚の知らせをしたところ、義姉上から祝辞をしたしめた手紙いただきました。それと一緒に、貴女へと義姉上から預かったものがあります」
マリウスは言って、机の引き出しを開け、そこから何か取り出す。
「これです」
マリウスがシリアナの前に手を差し出してきた。マリウスは親指と人差し指で指輪をつまんで持っていた。
その指輪には、小指ほどの幅はある金の輪の中心に、楕円型の固まって乾きかける寸前の血のように濃い暗赤色をした大粒の紅榴石が置かれていた。楕円型の紅榴石の両脇には、小粒の丸型の紅榴石が四つつけられ、指輪の下地の金を隠している。四列に配された小粒の紅榴石が、輪の中程まで並んでいる。中心の大粒の紅榴石の深い赤色から、その左右に配された小粒の紅榴石の、一番最後の石の闇夜に燃える炎のような明るい緋色まで、見事な階調をなしていた。
「オードラン公爵家の女主人に代代伝わる指輪です。オードラン公爵家の祖であるドニが恋人、やがては妻となったオレリーに、彼女へ向けた情熱をあらわすために贈ったのだと言われています。夫婦の愛の証しとして、オードラン公爵家では当主の妻にこれが代代受け継がれてきました。私も我が家の伝統に習い、私の生涯と愛と忠誠を貴女に捧げることを、この指輪とオードラン公爵家の名にかけて貴女に誓います」
マリウスは椅子から立ち上がると、机を周りシリアナの隣にくる。
シリアナは体ごとマリウスの方を向いた。
マリウスがシリアナの前に跪く。
「手を」
マリウスに言われ、シリアナは左手を出す。マリウスはその手を取り、手の甲に一度口づけると、シリアナの左手の薬指に指輪をはめた。
「私の心は常に貴女とともにあります」
マリウスは言い、シリアナの手につけたばかりの指輪の中心にある紅榴石に口づけ、立ち上がった。
「貴女は今日からオードラン公爵夫人だ」
「よいのですか? 由緒ただしいオードラン公爵家の公爵夫人となるのが私で」
「悪いもなにも、当主である私が決めたことです。誰にも文句は言わせません。それに義姉上も祝福して下さっている。この家に、貴女を迎え入れることを嫌う人間など一人もいません」
シリアナは顔をうつむける。
手紙にこそ当主の結婚を祝福する言葉を書いてきたが、敗戦国の王族の血をひく女を次のオードラン公爵夫人とするのは我慢ならない。これ以上、オードラン公爵家にはいられない。そんな気持ちでコレットは、マリウスにオードラン公爵家に代代伝わる指輪を預けたのではないのだろうか、そんな不安が頭をよぎる。
「それはそうとシリアナ、貴女には結婚式が終わり次第、オードラン公爵家の領地へ行って欲しい」
マリウスに言われ、シリアナは顔を上げる。
「この国の作法やしきたりに貴女はまだ慣れないでしょう? 結婚式には義姉上と甥のエリクだけを呼ぶことにしました。結婚式が終わったら義姉上とエリクとともに領地へ戻り、そこで義姉上からこの国の作法や宮廷での礼儀について学んで欲しい。秋も深まれば社交の季節がやってきます。その時には帝都へ戻ってきて下さい。私の妻として、みなに貴女を披露するつもりです」
「そのことについて、公爵夫人は何とおっしゃられているのですか?」
「手紙には、喜んでその役を引き受けてくださると書いてありました」
「―ですが……」
本当にコレットは、シリアナがオードラン公爵家に入ることをよしとしているのだろうか。
シリアナは顔をうつむけ、視線だけを上げてマリウスのことを見た。
「大丈夫です。義姉上のことを知らない貴女がいろいろと心配するのは最もですが、義姉上はとてもお優しい方です。この部屋に入ってくるなり、貴女は机の後ろの柱にかけられた絵をじっと見ていましたね。あれは義姉上の肖像画です。あの絵は、義姉上の結婚の祝いにと陛下が兄に下さったものです。
当代随一とよばれる画家のアベルが描いたものですが、あの絵は義姉上のことをよく写し取っている。あの絵の通り、義姉上は愛情に満ち満ちた方です。
シラールの民であり、ダナーン聖公国の王家の血をひく貴女の出自は複雑すぎる。手紙にはただ、貴女のことはダナーン聖公国の王女の侍女とだけ書いておきました。ですが、すべてを知っても義姉上は、貴女のことを嫌うことはありません。これからのことは安心して私に任せてはくれませんか?」
そうシリアナに言ってから、マリウスは横目でちらりとコレットの肖像画を見た。その瞬間、マリウスの瞳に深い思慕の念が浮かんだのをシリアナは見逃さなかった。
マリウスの心はどこにあるのだろう。
目の前の鏡に映る花嫁の顔は少し沈んでいて、とても幸せそうに見えない。
部族の滅亡を前に一人だけ逃げ出した自分が、愛を望むのはやはり間違っていたのだろうか。
シリアナはため息をつく。
と、部屋の扉が二三度叩かれた。
ロラが扉を開ける。黒い礼服に身を包んだマリウスが入ってきた。
「屋敷の前に馬車を用意しています。そろそろ準備ができた頃合いだと思って迎えにきたのですが―」
シリアナの姿をじっと見つめて、マリウスが息をのむ。
「想像以上に美しい」
ほっと吐き出された息とともに、マリウスが言った。
「当然です。婚礼というのは女にとっては一生で一番大切な日ですからね。それにオードラン公爵家当主の花嫁となられるお方です。いくら突然決まった結婚とは言え、オードラン公爵家の花嫁がみじめな姿をしていては世間に笑われます。侍女一同、心をこめてご用意させていただきました。
改めましてマリウス様、ご結婚おめでとうございます。恐れながら、オードラン公爵家の侍女の代表としてご挨拶させていただきます」
ロラがマリウスの前に頭を深く下げる。
「ああ、ありがとう。今日からは彼女がオードラン公爵夫人だ。彼女も他国から嫁いできて慣れないことも多いだろう。これからも彼女にはよく仕えて欲しい」
「存じ申し上げております。我ら侍女一同、公爵夫人には心よりお仕えさせていただく所存です」
ロラが頭を下げたまま言った。
「ロラの言葉だ。信頼している」
「ありがとうございます」
言ってロラが、顔を上げる。
「それはそうとマリウス様、シリアナ様ときたら婚礼衣装を着ても少しも嬉しそうな顔をして下さらないんです。愛する殿方からの言葉と言うものは、女性を心底喜ばせるものです。マリウス様からももっと褒めて、シリアナ様を笑顔にしてさしあげて下さい」
シリアナの肩をロラがぽんと叩く。うつむいて丸まっていたシリアナの背が反射的に伸びる。マリウスと目が合った。
マリウスはいつもは流れるままにしている首筋までかかる明るい金髪を、今日は前髪ごときっちりと後ろになでつけていた。礼服の下服にはぴんと縦に真っすぐ折り目が入り、マリウスの長い脚をさらに長く見せていた。
マリウスが穏やかに笑う。
「今日の衣装は貴女にとてもよく似合っています」
「そう、でしょうか?」
シリアナには自信がない。シリアナは目を伏せた。
シリアナの黒めがちの目は、虹彩と瞳孔の区別がはっきりとせず、夜空よりも暗い漆黒の瞳と白目との対比が鮮やかだった。その瞳はシリアナの感情を豊かに現し、シリアナが感情を高ぶらせたとき強く輝く。それをダナーンにおいては、生意気な顔つきをしているとよく言われた。
馬にのり、野外を駆け回って育ったシリアナの体には適度に筋肉がついていて、しなやかに引き締まっていた。逆に言えば、丸みがなく、女らしい柔らかさは欠けていた。マリウスの書斎で見た肖像画が、コレットその人のそのままの姿を写しとっているとするなら、春の日だまりのような温かさと優しさを持った彼女のような人には、野菊《アスター》の可憐な模様を一面に散らしたこのドレスは似合うだろう。だが、コレットと比べて女らしさの欠片もない自分に、このドレスが似合っているのだとは思えない。
シリアナは顔をうつむけたまま膝の上で両手を強く握る。左手の薬指には、マリウスがシリアナに対する愛を誓った紅榴石の指輪が、紅く、情熱的に輝いていた。
「結婚を前にして、女性が不安になるとはよく聞きます。ですが私は、貴女のことを誰よりも大切に思っています。きっと貴女を幸せにします。私を信じて下さい。そろそろ時間だ。行きましょう」
言ってマリウスはシリアナの前まで歩いてくると、シリアナに向かって手を伸ばした。
シリアナは黙ったままうつむいていて、目の前に差し出されたマリウスの肉厚で大きな手を見つめていた。
「さあ、さあ、シリアナ様」
ロラが両手で軽く、シリアナの肩を押してうながした。
シリアナはマリウスの手を取り立ち上がった。
マリウスが体の横でかるく肘を曲げ、右腕をシリアナに差し出してきた。シリアナはマリウスの右腕に手を絡ませた。
シリアナとマリウスが歩き出すと、ロラが裳裾をまとめて持ち上げついてくる。
部屋を出ると、廊下で会う使用人はみな、一旦仕事の手をとめ、どこかへ向かう足をとめ、祝いの言葉を述べてくる。マリウスはその度に、はれやかな笑みを浮かべ返事をする。
シリアナもマリウスに合わせて笑ってみたが、持ち上げた頬と唇の動きがぎこちない。
もし、マリウスの心を信じきれているならば。シリアナは自分と腕を組み、隣を歩いているマリウスのことを見上げた。
日頃から剣で鍛えている彼の背筋は、しなやかに伸びている。マリウスの背は高い。シリアナとマリウスの身長差は、頭一つ分ほどあった。シリアナの位置からは、マリウスの喉元から顎、そしてほお骨から鼻梁にかけての線を見上げる形になる。
鼻筋がすっと通り、目尻がきりっと上がったマリウスの顔立ちは精悍だった。それはなぜかいつもシリアナに、シリン高原の北にある岩と雪ばかりの山脈で、誇り高く生きる雪豹のことを思いおこさせる。だが今日は、マリウスの目尻は嬉しそうに少し下がり、彼の雄雄しい雰囲気にいくらか柔らかさをくわえていた。
シリアナに与えられた部屋は、東翼の一番奥くにあった。東翼の端から端まで長い廊下を歩ききると天井が一気に高くなり、吹き抜けの玄関広間の壁に沿ってつくられた二階の回廊に出る。
シリアナは回廊から下を見た。出入り口の両開きの大きな扉の前に、使用人頭のレノーが立っている。人の気配に気づいてレノーが回廊を見上げる。シリアナと目が合って、レノーは小さく頭を下げた。
シラールの民であるシリアナは、ダナーンにおいては夜会や貴婦人の開く茶会といった社交の場とはほど遠く、屋敷の中で本を読んだり、王都から少し離れた草原で馬を走らせたりして過ごしていた。そのため、屋敷の中では部屋用のドレスや侍女たちの着るような簡易な服を着て過ごし、馬に乗る時は男装を身にまとい、動きやすい服しか着たことがなかった。
盛装は今日が初めてだ。
花嫁衣装の裾は長い。シリアナは、床とすれ、内側に巻き込んでしまったスカートの裾を、途中何度か踏んでしまいつまづいた。その度に、マリウスの腕をつかんだ左手に力をいれた。するとマリウスの腕全体に緊張が走る。彼の腕がきゅっとしまって硬くなる。彼のたくましい腕が、シリアナの体重を支えてくれた。そのおかげで転ばすにすんだ。
「衣装の裾を軽く蹴るように歩くと楽ですよ」
玄関広間の二階の回廊から一階へ続く階段の前まできて、そっとマリウスに耳打ちされる。
「もっと早くに教えて下さればよかったのに」
シリアナはマリウスのことを軽くにらむ。
「何度か転びそうになったでしょう? その度に貴女に頼られるのが楽しかったものですから。申し訳ありません」
マリウスが笑う。
「意地悪なんですね」
シリアナは、ふい、と顔を反らす。
シリアナによく仕えて欲しいと、ロラに見せたシリアナに対する心遣いや、シリアナのことをからかうのを楽しむ彼の軽口。
マリウスの見せる誠実な態度や、彼とのささいなやり取りに、マリウスは真実シリアナのことを愛しているのだと感じられた。
だが、マリウスが中継ぎの当主であるというオードラン公爵家の内情を考えた時、マリウスの伴侶が男児を生んでは、いずれ家督相続で争いが起きる。けれども、将来シリアナが子を成したとしても、後ろ盾のないシリアナの子では、マリウスの兄クロヴィスと皇帝の愛娘であるコレットの間に生まれたエリクの爵位継承権を脅かす存在にはなり得ない。
シリアナに対しては熱心に愛をささやき、周囲へはシリアナに対しての気遣いを見せているが、家のために丁度よい結婚相手、それがシリアナに対するマリウスの評価なのではないか。そんな疑念がシリアナの心の中にあった。
「だが階段は危ない。貴女を護る自信がないわけではないですが、いつも私が貴女の側にいるとは限りません。もしもの時のために、片手は手すりにそえて降りるようにして下さい」
「ええ」
左側からマリウスに礼護され、伸ばした右手を軽く手すりに添える。足を前に軽く蹴り出し、花嫁衣装の裾を踏まないように注意しながら、ゆっくりと階段を降りる。
階段を降りきり、扉の前までくるとレノーが深深と頭を下げた。
「おめでとうございます旦那様。差し出がましいとは存じますが、シリアナお嬢様におかれましては、旦那様のことを末永くよろしくお願い申し上げます」
「もちろんです」
シリアナは意識して頤を上げ、レノーに応える言葉を続けた。
「ですが今、私が異国の地で何不自由なく暮らせるのもマリウス様のお陰です。わたくしの方こそ、オードラン公爵家のみなとマリウス様の心遣いには感謝しています」
謝意と敬意は示しても、主が使用人に頭を下げてはいけない。
屋敷の秩序を守るため、使用人と主、その序列は大切なものだから。
シリアナはオードラン公爵家にきて生まれて初めて、侍女たちからあれやこれやと身の回りの世話を焼かれた。
シリン高原の自然は厳しい。雪が雨に変わりはじめると、新芽が芽吹き、地面は地平線の先まで、濃淡を持った緑一色で染められる。草を食べる家畜は肥えはじめるが、夏になれば乾燥し、せっかく芽吹いた草も枯れてしまう。夏が訪れてから、シリン高原の北に位置する山脈から冷たい風の吹き下ろしてくるまでの期間は短い。北風の中に湿った匂いを感じるようになると、すぐに雪が降り始める。冬はひどく冷え込み、毎年、力のない老人や風邪をこじらせた子供が死んでいった。家畜は家族に属する財産ではあったが、困ったことがあれば人人は、気軽に持っているものを分け合う。少ない食料や物資を誰かが独占しては、厳しいシリン高原の冬は乗り切れない。部族の中で人人の立場は対等だった。バズド族の中で暮らしていたころは、族長の孫娘だからと言って特別扱いされることはなかった。
それにダナーンの異母兄の下に身を寄せてからも、屋敷に仕える人人はシリアナを蛮族の娘と見下げて、最低限の世話しかしなかった。
しかし、オードラン公爵家の人人は皆優しかった。異国から嫁いできたシリアナでは、帝国の礼儀やしきたりに慣れないだろうと、シリアナが礼儀に叶わぬ行いをしてもあざけることなく受け入れ、その度に正しい振る舞いを教えてくれた。
シリアナは人から好意を持って仕えられることに慣れていなかった。オードラン公爵家へきてから数日、シリアナは使用人達の優しさに恐縮しきりだった。それではいけないとロラに注意された。
以降シリアナは、使用人達に感謝の意は伝えても、彼らの前では常にぴんと背筋を伸ばして胸を張り、卑屈に見えないよう心がけている。
「旦那様、馬車を表に回しています」
「ああ」
レノーの言葉に、マリウスが頷く。
「それではいってらっしゃいませ」
言ってレノーが扉を開いた。
玄関のすぐ前に馬車があった。オードラン公爵家の紋章である双頭の鷲の意匠を施した黒塗りの箱馬車は、シリアナが王城からこの屋敷に連れられてきた時に乗せられたものだった。
馬車には二頭の馬がつながれていた。二頭は同じ色の明るい茶褐色の体毛を持っていた。二頭とも、頭から膝のあたりまで均一な色をした茶褐色の毛で覆われ、四肢の先に向け徐徐に黒みが強くなっていた。よく手入れされた被毛に汚れはなく、朝の清清しい陽光を反射して美しく輝いていた。馬は行儀よく並んで立ち、御者台に座る御者の指示を大人しく待っていた。
マリウスはシリアナの腕を解き、馬車の前まで行き扉を開ける。
「シリアナ」
マリウスは昇降板の横に立って、シリアナに手を差し出した。
シリアナはマリウスの手に自らの手を重ね、馬車に乗りこんだ。
ドレスの裾と裳裾を皺にしないように気をつけながら、馬車の後ろに座った。
その後からマリウスが馬車に乗りこみ、シリアナと向かい合わせの席に座り扉を閉めた。
「出してくれ」
マリウスが背後にあった小窓を少し開け、御者に声をかけた。
御者が、はいと言う。
御者は馬に向かってかけ声をかけ、持っていた鞭で馬の尻をたたいた。
馬車がゴトリと音を立てて動き出す。
マリウスは窓を閉めて座席に座り直した。
「今日のことは聞いていますか?」
マリウスがシリアナに問いかけてきた。
「はい。大体のことはロラから聞きました。帝都にある大神殿へ行きまずは改宗をし、マリウス様と結婚の誓いを立てると。入信式と結婚式の手順についてもロラから教わりました」
「それはロラから聞きました。彼女は貴女によくしてくれましたか?」
「はい」
シリアナは応える。
マリウスはにっこりと笑って頷き、すぐに真面目な顔になった。
「だが、貴女には本当に申し訳ない」
「なぜですか?」
「貴女は、ダナーン聖公国においても、ダナティアは信仰しなかったのでしょう? それを無理矢理改宗させてしまって」
「いいえ」
シリアナは首を振る。
「半分とはいえ、わたしにはバレ王家の血が流れています。確かに、ダナティアへの信仰を誓えば、王家の一員としては認められなくとも、ダナーン族の一人としては認められ、故国での生活も少しは楽になったかもしれません。実際異母兄にも改宗を勧められました。でも、そのことについては、特別強い思いがあったわけではないんです。あの頃のわたしは、神も何も信じていませんでしたから。バズド族が滅んだ時に逃げ延びず、みなとともにわたしも死んでしまえばよかったと、ただ、流れ去る時に身を任せ、いつこの命がつきるのだろうかと、それだけを思っていました。
わたしはずっと、一人生き残ったことは部族への裏切りだと信じていました。でも改宗してしまえば、シリン高原で過ごしたすべての時を捨て去ってしまうような気がして、一人生き残ってしまったことにどんなに後悔の念があるとしても、バズド族の一員として過ごした日日はわたしにとってはとても大切なもので、それだけはできませんでした。改宗するくらいであれば、自害してもよいと思っていましたから」
「ではなぜ、今日のことに頷いてくれたのですか? 改宗は、貴女にとっては堪え難いことでしょう?」
「ダナーンにいた頃のわたしであれば、そうだったと思います」
「今は違う?」
「ええ。バズド族もダナーンも滅びました。この国で生きて行くのが、今のわたしの運命なのだと納得しています」
「運命、ですか? 故郷が滅び、純血主義の強いダナーンで人人から様様な目を向けられて過ごしてきた貴女の気持ちは私にはわかりません。でもいつか、自分の人生はこの国にあるのだと、貴女が思えるようになってくれればと私は願っています」
マリウスが真っ直ぐにシリアナのことを見つめてくる。その強い視線に居心地の悪さを感じ、シリアナは顔をふせ、両手を膝の上で強く握った。左手の薬指には、マリウスが愛を誓った石榴石の指輪があった。
オードラン家の屋敷から神殿まで距離はなかった。帝都の大通りを通り、馬車はほどなくして神殿についた。
神殿の入り口にの左右には、人の背丈より少し低いくらいの高さの台座の上に、鷲の頭にライオンの体、そして大きな翼をもった生き物の彫刻が、向かい合わせで置かれていた。そこから、両脇に砂利のしかれた石畳の参道が長く続いている。砂利の上を薄汚れた粗末な衣服をまとった多くの人が歩いていた。
「この場所に、二頭のグリフィンが引く二輪戦車に乗った唯一神バティストが降り立ち、皇室の始祖であるオディロンに国をつくるようにと告げた言われています。ここは信仰の中心です。そのため帝国中から人が参詣にくるんです」
シリアナが馬車の窓から外を見ていると、マリウスが言った。シリアナはマリウスに視線をうつした。
「参道の東横に、彼らのための祈祷所と帝都に住む人人のために神官たちが日日の祈りを捧げている神殿がありますが、今日は前庭にある神殿で、あなたの入信式と結婚式を行うことになっています」
「式の進め方についても、ロラたちと練習しました」
ロラを神官に侍女の一人をマリウスに見立てて、礼拝堂への入場から退場まで、入信式と結婚式の式次第にそった立ち居振る舞いを何度も練習した。その時に、帝国の信仰や教義についても大まかなことを教えられた。
「大丈夫ですよ、緊張しなくても。今日の式には列席者はいません。神官の指示に従って動けば、多少の失敗をとがめる人はいません」
「そうですね」
シリアナはマリウスの言葉に、少しだけ笑って応えた。
参道の奥には石造りの大きな門があった。その両脇に長い槍を持つ兵が立っていた。
門は弧状になっていた。門は木製の扉によって閉ざされていたが、馬車が二台すれ違ってもいいだけの十分な広さがあった。
御者がオードラン家の馬車だと告げると兵が動き、重そうに両開きの木戸を開ける。兵の一人が通るようにと言う。御者はそれに応え、馬車を動かす。馬車は門をくぐり抜けた。
門の入り口から石畳の道が真っ直ぐに続いていた。参道の左右には背の高い樫の木が植えられていた。樫の木は、小枝の端まで初夏の瑞瑞しい色をした緑の葉で覆われていて、石畳の上に涼やかに影を落としていた。
馬車は全体に木漏れ日を映して参道を進み、前庭の奥にある神殿の前で止まった。
御者が扉を開ける。マリウスが身軽な動きで先に降りる。シリアナはマリウスに助けられて、昇降板を使い地面に足を下ろした。
全て白い大理石でできた神殿は、伝統的な古代ヘルク調の建物だった。
長方形をした神殿の周囲には、上に向かって次第に細くなっていく円柱が等間隔に並び、平べったい三角柱を横に倒した形の屋根を支えていた。柱の奥には天井までの高さがある壁が造られていて、中を覗くことはできない。柱の側面には縦に伸びる細い溝が何本も彫られていた。柱の上と下には繊細な模様の彫刻が施されていた。柱の上から屋根の間の三角形になった部分には、二頭のグリフィンの引く二輪戦車に乗った唯一神バティストが、その前に跪くオディロンに宣託をしている場面を描いた浮き彫りがあった。
神殿の正面から地面へ向かって造られた階段の上に、一人の神官が立っていた。背の低い、人の良さそうな顔をした神官が、小さく会釈した。マリウスがそれに返す。マリウスの腕に左手を預けたまま、シリアナはそれを真似して頭を下げた。
「お待ちしておりましたよ、オードラン公爵」
「まさか、大神官自ら今日の式を執り行ってくださるとは思っていませんでした」
マリウスが言う。
大神官は帝国の信仰の頂点にいる。その大神官がなぜ今ここにいるのか。シリアナは慌ててマリウスの顔を見たが、マリウスは笑みを浮かべたまま大神官の方を見ていた。
「今日のことについてはコレットから手紙を受け取りました。可愛い姪に頼まれては否とは言えません。それに、今日の式を大神官が執り行ったとみなが知れば、そちらの愛らしい花嫁にも箔がつくことでしょう。
オードラン公爵、今日、貴方の花嫁となる幸せなお嬢さんを私に紹介してはいただけませんか」
大神官が、シリアナのことを見てにこりと笑う。シリアナは思わず身を退いた。
「大神官様、隣にいるのが、今日これから私の妻となるバズド=ナキ・バジス=アミ・ダナ=アミ・スレ・シーリーン・スレ・アナです。シリアナ、そちらにいらっしゃるのが、皇帝陛下の弟君でもあらせられる大神官のアダルブレヒト様だ」
「よろしくお願い申し上げます」
シリアナはマリウスの腕から手を外すと、両手でスカートを少しだけ持ち上げ、その場で礼をした。
「ご丁寧にありがとうございます。いつまでも立ち話と言うわけにはいけません。早く入信式と結婚式を始めましょう。オードラン公爵にシーリーン・スレ・アナ嬢、さあ、こちらへ」
大神官は体を横にすると、左手を水平に上げて体を開き、柱の奥の壁にある、開いたままになっていた木製の扉を示した。
シラールの民は自らの名を告げる時、部族の名の後に、氏を母方、父方の順で名乗り、最後に親から与えらえた名を付け加える。母親に夫が複数いる場合は、母親の夫の氏をすべて名乗るが、母親が婚姻していなければ氏は名乗れない。氏のない者には、相続権はなかった。財産は父親から、氏は母親から継ぐものだった。
ダナーンや帝国では、名は親から与えられた名と家名からなる。シラールの民の名は、帝国のものとは全く違う。
シリアナは、大神官が正確に自分の名だけを言ったのに驚いて、柔和な大神官の顔を見つめたまま足を踏み出すのを忘れる。
「――シリアナ?」
先に歩き出したマリウスが、振り返って言う。シリアナは軽く首を振り、マリウスの右腕に手をそえた。
それを見て、大神官が扉の方へ歩き出す。大神官の後に続いて歩くマリウスに導かれるまま、シリアナは階段を上った。
入信式と結婚式はあっけないほど簡単に終わった。
有に千人は入れそうな広い神殿の中には、シリアナとマリウスの他に、大神官とそれを補佐する二人の侍者以外、誰もいなかった。
壁の高い場所には、腕を左右に開いたほどの高さのはめ殺しの窓が横一列に並んでいた。そこから差し込む日の光が、やさしく神殿内を照らしていた。
神殿の一番奥は、周囲から一段高くなっていた。長方形の段の出入り口側の辺の真ん中に、白い大理石で造られた祭壇があった。祭壇の左右に侍者が控え、祭壇の前には大神官は立っている。大神官の後ろには、唯一神バティストに特別に恩恵を賜った初代皇帝オディロンが、一度天寿を全うした後よみがえり、黄金色に輝く雲をかき分け、肉体を持ったまま天に昇っていく姿が描かれた、天井までの高さがある屏が立てられていた。
シリアナの向かって右に立っている侍者の横には、背もたれのない、座面に真紅の天鵞絨が張られた椅子があった。その上に、錫の鐘が伏せて置かれていた。侍者は、鐘の上から伸びた細い持ち手を、三本の指ではさんで持ち上げ、鐘を二三度軽く振ふった。澄んだ音がした。鐘が鳴り止むと、侍者は鐘を椅子に戻した。
大神官はゆったりとした動作で腕を左右に大きく開き、手を胸の前で合わせると、厳かにシリアナの入信式を始めることを告げた。
入信式の間、マリウスはシリアナの後ろにいた。大神官が、バティストを唯一人の神として信じるかとシリアナに訊ねる。シリアナは諾と返事をする。入信式はそれだけで終わった。
結婚式に移ると、シリアナとマリウスの二人は並んで祭壇の前に立った。結婚式は、大神官がシリアナとマリウスの二人に結婚の意思を確認し、二人がそれに同意した後、結婚宣誓書にそれぞれが名を記入して終わる簡単なものだった。
乗ってきた馬車でオードラン家の屋敷に戻ると、ロラによって純白の花嫁衣装から旅用の、スカート部分が大きく広がらない、靴が見えるほどに裾の短い動きやすい服に着替えさせられた。既に準備はできているからと、玄関前にとまった馬車のところまで、オードラン公爵家にきてからロラと一緒にシリアナの世話をしていた侍女のリーズとともに連れて行かれる。
玄関前で待っていた馬車は、朝神殿に行くときに乗ったものに比べると幾分質素なものだった。オードラン公爵家の紋章は入っているが、馬車の前輪の上に小さく入っているだけで、誰の馬車なのか一目では分かりにくい。馬車には、前に二人、後ろに三人、騎馬の護衛がついていた。
ロラに急かされ馬車に乗る。
馬車の中は、三人掛けの座席が向かい合うようになっていて、シリアナとリーズの二人が乗るには十分に広く、座席と座席の間にある扉の上に小さな窓がついていた。
リーズがシリアナの後から乗り込んできて、御者台を背にした席に座る。外から扉が閉められるなり、リーズは扉の上の窓を開けて、外を見るようにシリアナを促す。
シリアナは窓際に寄り、少し腰を浮かせて開いた窓から外を覗いた。
窓の下にマリウスがいた。
「護衛の者はつけましたが、街道に出れば何があるかわからない。一番目立たない馬車を選びました。道中の無事をバティストに祈っています」
「ありがとうございます」
シリアナは小さく礼を言う。
「義姉上にもご無沙汰しているし、エリクの様子も気になるので、本当は私も一緒に行きたいのですが、先の戦の片付けで、まだまだ落ち着かない。もうしばらくしたら、必ず領地へ向かいます」
「私のことなどお気になさらずに。マリウス様のお邪魔になることは望んでおりません」
「つれないことを言わないで下さい。せっかく夫婦になれたんだ。私はいつも貴女のことを思っています。手紙を書きます。きっと返事を下さい」
「はい」
シリアナは小さく頷く。
「約束だ。手を」
マリウスに言われ、馬車の小さな窓から指先だけを出す。その手にマリウスが口づけた。
「貴女は私の妻だ。愛しています」
シリアナの手の甲から顔を離してマリウスが言う。
「わたしもです」
シリアナはうつむいて応える。
「マリウス様、新妻とお別れになるのがお辛いのは十分に存じておりますが、奥様を早く出発させてさしあげないと、日が暮れるまでに宿にお着きになれませんよ」
シリアナを見送りに出ていたロラが口を挟む。マリウスは名残惜しそうに、シリアナの手を放した。
「そうだな。日が落ちて街道を行くのは危ない。お前たち、決して無理はしないように」
マリウスが、護衛と御者に向かって言った。
「承知しております。公爵夫人の身は命に代えてもお守りいたします」
右前方の騎馬の男が振り返って、マリウスに言った。
「信じている。――それではシリアナ気をつけて。行け」
マリウスの言葉に、御者が馬に鞭を打った。馬車の車輪が動き出すのと同時に、前後の騎馬も歩き出す。
「シリアナ、必ず貴女に会いに行く」
動き出した馬車に向かって、マリウスが言った。シリアナは小さく頷いて返事をし、窓から離れ、座席に腰を落ち着けた。リーズが窓を閉める。
馬車の車輪が回る音と前後を行く騎馬の蹄鉄の音だけが、馬車の中に響いている。
マリウスは本当は誰に会いたいのだろうか。
シリアナは、石榴石の指輪を触って考えた。
純白の花嫁衣装に身を包み、シリアナは鏡台の前に座っている。
「お綺麗ですわ」
後ろに立った痩せ気味の侍女が、シリアナの頭に仕上げの白い薄布を被せて言う。
オードラン公爵家のお仕着せを身につけた彼女は、大部分が白くなってしまた髪を一筋の後れ毛もなく後頭部の上に丸くまとめていた。
彼女の名はロラ。オードラン公爵家に嫁したマリウスの母につきしたがい、公爵家へとやってきた女性だ。
「マリウス様もやっとご結婚なされる気になって、安心いたしました」
ロラはシリアナに被せた薄布の縁を軽く摘んでは放し、形を整えている。鏡に映ったロラの顔が、目尻の皺を深くして嬉しそうに笑っていた。
「マリウス様はもう、ご結婚はすっかりあきらめていらっしゃるものと思っておりました」
無邪気に喜ぶロラの顔を鏡越しに見つめ、シリアナは閉じた唇をきゅっと結ぶ。
周囲から望まれた結婚ではない。
マリウスが皇帝にシリアナを望んだ時、甥エリクをマリウスの養子に迎え、オードラン公爵家の跡継ぎとすることが条件だったと聞いた。
オードラン公爵家の祖は、第二代皇帝グレゴワールの弟だったと言う。
敗戦国の女の血が、由緒正しいオードラン公爵家に受け入れるはずがないのは当然だった。
「まあ、まあ、花嫁がそんなに怖い顔をなさって。緊張なされるのはわかりますが、今日は女性にとって生涯で最も忘れ得ぬ日となるのですから、もっと幸せそうな顔をなさいませ。その方がマリウス様もお喜びになるに違いありません。なにせマリウス様ご自身が、貴女様との結婚を望まれたのですよ」
言ってロラが、シリアナの両肩に手をのせる。
「結婚式の主役は花嫁と決まっています。もっと胸を張って堂堂となさいませ。マリウス様にこんなに美しい女性を妻にできるなんて、自分はなんて幸せものなんだと思わせないといけません」
ロラはシリアナの頬に自身の頬をよせ、自らが着飾ったシリアナの出来を見てほほ笑んだ。
「貴女様がこちらのお屋敷にいらっしゃった翌日、二十日後に結婚式だとマリウス様がおっしゃられて、突然のことで衣装はどうしようかと悩みましたが、コレット様の婚礼衣装がぴったりでよかった。いくら陛下にお許しをいただこうとも、神の前で誓わなければ、自然に認められた夫婦とはもうせませんものね」
シリアナは椅子に座った自分の体を見下ろした。
袖も肩紐もない前身頃の上の部分は、中心が一番高くなる形でゆるやかに湾曲し、胸元を鎖骨の下まで覆っている。長いスカートの部分はゆったりと襞を描き、シリアナの身長の倍はある裳裾をひいていた。
ドレスは純白の絹地の上に、目の細かい透布を重ねてつくられていた。透布には象牙色の糸で、野菊とその葉をかたどったの模様が一面に刺繍されている。
頭から足下までを覆う薄布の縁にもドレスと同色の糸で、野菊の模様が刺繍されていた。
スカートの部分はあまり膨れ上がらずにすとんと下に落ちている。華美な花嫁衣装ではなかったが、すっきりとした線形の意匠から品の良さが漂うドレスだった。
「皇女の方方は徽章に花の模様を用いるものですが、コレット様は野菊をお使いでした。ご結婚のお祝いにと、当代第一と言われる職人に皇帝陛下直直に申しつけて、この衣装をご用意されたのですよ。
マリウス様のご結婚の知らせを受けたコレット様から、ぜひにこの衣装を使って欲しいとお手紙をいただきました」
「―そう。わたくしを受け入れてくださって、ありがたいことね。でも、今日の式にはいらっしゃらないのでしょう?」
「ええ。一昨日早馬が参りまして、エリク様が熱を出されたとか。看病のためこちらへはいらっしゃらにとのことでした。夫であったクロヴィス様が亡くなって以来、コレット様は領地から一度もお出になったことはありません。わたくしももう何年もお会いする機会をいただくことがなくて、久しぶりにお会いできると思っておりましたのに残念ですわ」
ロラがあからさまにため息をついた。
「あなたはオードラン公爵夫人のことを随分と慕っているようね」
鏡の中のロラの顔を見ながら、シリアナは言った。
「当然です。お優しくて美しい、愛情深くとても慈愛に満ちたお心をお持ちの方で、あんなすばらしい方、そうはいらっしゃいません。この屋敷の誰もが、いえ、一度でもお会いしたことのある誰もがお慕いもうしあげておりますわ」
「そう」
言ってシリアナは、一度だけ入ったマリウスの書斎を思い出した。
南向きの書斎は、扉を入った反対側がすべて窓となっていた。昼間緞帳を開け放っている時に訪れたため、開放感があった。
寄木細工の床はよく磨かれ、飴色に輝いていた。窓があるのとは違う三方の壁は、ぎっしりと本のつめられた天井まで届く本棚で覆われていた。桃花心木で造られた本棚は、年代を経て鈍く焦げ茶色に輝き、部屋全体に重厚感を与えていた。
窓を背に置かれた机のすぐ後ろの柱に、古代ヘルク風の、上位五分の一ほどを外側に折り返して体にまきつけた白い布を、左右の肩でブローチでとめ、落ちてしまわないように腰にまいた紐で固定した、ゆったりとした衣装を身にまとった女性の姿を描いた肖像画がかけられていた。
その絵に描かれた女性は、斜め横を向いて立っていた。彼女はわずかに顔をうつむけ、正面に向け艶かしく腰をひねっていた。彼女の結い上げられていない黄金色の髪は豊かに波打ちながら、白鳥のように細く長い首の後ろを隠し、背の中程まで流れていた。彼女は左手を腿のあたりに置き、衣装の裾を軽くつまんで持ち上げていた。右手は肘を軽く曲げて前へ出し、掌を上へ向け、親指と人差し指と中指で一輪の野菊を縦にして持っていた。
その絵の中で最も特徴的なのは、伏し目がちにこちに向けられた彼女の紫水晶色の瞳だった。
紫水晶色の瞳には、長い睫毛の影がかかっている。紫水晶色の瞳は穏やかさと慈愛に満ち満ちていて、絵の前でいつまでも彼女に見つめられていたい、そんな気分にさせられる。
部屋に入るなりシリアナは、その絵に目をとめ立ちすくんでしまった。
整った顔立ちには表情がなく、彼女の感情は伺えない。その中で紫水晶色の瞳だけが唯一、描かれた女性の性格を表していた。
「何か用ですか?」
マリウスに声をかけられはっとする。
シリアナは、女性の肖像画のちょうど下、書斎の大きな机の椅子に座っていたマリウスに視線を向けた。
「はい。お渡ししたいものがあって参りました。お邪魔でしたでしょうか」
筆置きに置かれた筆と、マリウスの前に広げられた便せんを見て訊く。
「いいえ。貴女の訪れならいつでも大歓迎です。それで、私に渡したいものとは」
「はい」
シリアナは頷いて、マリウスの座る机の前までいく。
マリウスの前に手を差し出し、拳をつくっていた右手を開いた。
「これは?」
マリウスはゆったりと椅子に腰掛け直すと、体の横に肘を張り、胸の前で両手を組んで訊いてきた。
シリアナの掌には、オオカミの牙でつくられた首飾りが載せられている。マリウスに初めて抱かれた部屋を後にするときに見つけ、持って出た。こびりついた汚れは拭き取り綺麗にし、紐は新しいものに取り替えた。
「お守りです。シリン高原に住む人人はみな、オオカミとシラールの民はシーリーン女神の子供であり、兄弟だと信じています。人は火をつかい家畜を飼うことを覚え、自然から離れる道を選びました。オオカミは獣として自然の中にとどまり、シリン高原の北にある山脈の中でも最も高い山、カムル山の頂におわすシーリーン女神の使者として、世界とシーリーン女神をつなぐ役割をしているのだと言います。
ですがオオカミは家畜を襲います。シラールの民は天幕のそばでオオカミを見つけるとすぐに殺します。その後でオオカミの皮をはぎ、体は天幕から少し離れた場所にさらし、空を自由に飛び回る禿鷲に食べさせることで、シーリーン女神の下までオオカミの魂を運んでもらいます。
オオカミの遺体を葬儀場に持っていく前に、遺体から一番大きな牙だけをとっておき、その根元に部族に伝わる文様を彫り、風の巫女に祝福を与えてもらいます。それを常に身に付けることで、身近にシーリーン女神と自然の存在を感じ、お守りとするんです。これは代代家族に受け継がれます。わたしはこれをバズド族が滅びた晩、婚約者から受け取りました。
これは、わたしにとってはわたしの出自をあらわす大切な品です。マリウス様はお嫌かもしれませんが、今はマリウス様に持っていていただきたいと思っています。これから先の人生を、わたしはマリウス様の妻としてマリウス様に捧げる覚悟です。これはわたしのその心をマリウス様にしめす誓いの品です」
「私と家族になってもらえる、そういうことですか?」
背もたれに深く体預け、組んだ両手はそのままに、肘掛に肘をのせ、マリウスが見上げてくる。
「はい」
シリアナは頷いた。
「では、喜んで受け取りましょう」
言ってマリウスは、シリアナの掌からオオカミの牙の首飾りを取り上げ、自らの首にかけた。
「これを貴女だと思って大切にします」
首飾りにつけられたオオカミの牙を親指と人差し指で触りながら、マリウスが言った。
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
シリアナは一礼し、部屋を出るため踵を返そうとした。
「待ってください」
マリウスが呼びとめる。
「本来であれば結婚式の後に渡すべきものなのでしょうが、貴女がわたしに私と夫婦になるという心をしめしてくれたのです。私からも誓いをしなければ不公平というものでしょう。今、私が誰に手紙を書いていたかわかりますか?」
シリアナはマリウスの前に広げられた便せんをちらりと見る。細かく文字が書かれているのは見えるが、シリアナの場所からでは何が書いてあるのかまで判別することはできない。シリアナは首を振った。
「義姉上に手紙を書いていたところです。貴女との結婚の知らせをしたところ、義姉上から祝辞をしたしめた手紙いただきました。それと一緒に、貴女へと義姉上から預かったものがあります」
マリウスは言って、机の引き出しを開け、そこから何か取り出す。
「これです」
マリウスがシリアナの前に手を差し出してきた。マリウスは親指と人差し指で指輪をつまんで持っていた。
その指輪には、小指ほどの幅はある金の輪の中心に、楕円型の固まって乾きかける寸前の血のように濃い暗赤色をした大粒の紅榴石が置かれていた。楕円型の紅榴石の両脇には、小粒の丸型の紅榴石が四つつけられ、指輪の下地の金を隠している。四列に配された小粒の紅榴石が、輪の中程まで並んでいる。中心の大粒の紅榴石の深い赤色から、その左右に配された小粒の紅榴石の、一番最後の石の闇夜に燃える炎のような明るい緋色まで、見事な階調をなしていた。
「オードラン公爵家の女主人に代代伝わる指輪です。オードラン公爵家の祖であるドニが恋人、やがては妻となったオレリーに、彼女へ向けた情熱をあらわすために贈ったのだと言われています。夫婦の愛の証しとして、オードラン公爵家では当主の妻にこれが代代受け継がれてきました。私も我が家の伝統に習い、私の生涯と愛と忠誠を貴女に捧げることを、この指輪とオードラン公爵家の名にかけて貴女に誓います」
マリウスは椅子から立ち上がると、机を周りシリアナの隣にくる。
シリアナは体ごとマリウスの方を向いた。
マリウスがシリアナの前に跪く。
「手を」
マリウスに言われ、シリアナは左手を出す。マリウスはその手を取り、手の甲に一度口づけると、シリアナの左手の薬指に指輪をはめた。
「私の心は常に貴女とともにあります」
マリウスは言い、シリアナの手につけたばかりの指輪の中心にある紅榴石に口づけ、立ち上がった。
「貴女は今日からオードラン公爵夫人だ」
「よいのですか? 由緒ただしいオードラン公爵家の公爵夫人となるのが私で」
「悪いもなにも、当主である私が決めたことです。誰にも文句は言わせません。それに義姉上も祝福して下さっている。この家に、貴女を迎え入れることを嫌う人間など一人もいません」
シリアナは顔をうつむける。
手紙にこそ当主の結婚を祝福する言葉を書いてきたが、敗戦国の王族の血をひく女を次のオードラン公爵夫人とするのは我慢ならない。これ以上、オードラン公爵家にはいられない。そんな気持ちでコレットは、マリウスにオードラン公爵家に代代伝わる指輪を預けたのではないのだろうか、そんな不安が頭をよぎる。
「それはそうとシリアナ、貴女には結婚式が終わり次第、オードラン公爵家の領地へ行って欲しい」
マリウスに言われ、シリアナは顔を上げる。
「この国の作法やしきたりに貴女はまだ慣れないでしょう? 結婚式には義姉上と甥のエリクだけを呼ぶことにしました。結婚式が終わったら義姉上とエリクとともに領地へ戻り、そこで義姉上からこの国の作法や宮廷での礼儀について学んで欲しい。秋も深まれば社交の季節がやってきます。その時には帝都へ戻ってきて下さい。私の妻として、みなに貴女を披露するつもりです」
「そのことについて、公爵夫人は何とおっしゃられているのですか?」
「手紙には、喜んでその役を引き受けてくださると書いてありました」
「―ですが……」
本当にコレットは、シリアナがオードラン公爵家に入ることをよしとしているのだろうか。
シリアナは顔をうつむけ、視線だけを上げてマリウスのことを見た。
「大丈夫です。義姉上のことを知らない貴女がいろいろと心配するのは最もですが、義姉上はとてもお優しい方です。この部屋に入ってくるなり、貴女は机の後ろの柱にかけられた絵をじっと見ていましたね。あれは義姉上の肖像画です。あの絵は、義姉上の結婚の祝いにと陛下が兄に下さったものです。
当代随一とよばれる画家のアベルが描いたものですが、あの絵は義姉上のことをよく写し取っている。あの絵の通り、義姉上は愛情に満ち満ちた方です。
シラールの民であり、ダナーン聖公国の王家の血をひく貴女の出自は複雑すぎる。手紙にはただ、貴女のことはダナーン聖公国の王女の侍女とだけ書いておきました。ですが、すべてを知っても義姉上は、貴女のことを嫌うことはありません。これからのことは安心して私に任せてはくれませんか?」
そうシリアナに言ってから、マリウスは横目でちらりとコレットの肖像画を見た。その瞬間、マリウスの瞳に深い思慕の念が浮かんだのをシリアナは見逃さなかった。
マリウスの心はどこにあるのだろう。
目の前の鏡に映る花嫁の顔は少し沈んでいて、とても幸せそうに見えない。
部族の滅亡を前に一人だけ逃げ出した自分が、愛を望むのはやはり間違っていたのだろうか。
シリアナはため息をつく。
と、部屋の扉が二三度叩かれた。
ロラが扉を開ける。黒い礼服に身を包んだマリウスが入ってきた。
「屋敷の前に馬車を用意しています。そろそろ準備ができた頃合いだと思って迎えにきたのですが―」
シリアナの姿をじっと見つめて、マリウスが息をのむ。
「想像以上に美しい」
ほっと吐き出された息とともに、マリウスが言った。
「当然です。婚礼というのは女にとっては一生で一番大切な日ですからね。それにオードラン公爵家当主の花嫁となられるお方です。いくら突然決まった結婚とは言え、オードラン公爵家の花嫁がみじめな姿をしていては世間に笑われます。侍女一同、心をこめてご用意させていただきました。
改めましてマリウス様、ご結婚おめでとうございます。恐れながら、オードラン公爵家の侍女の代表としてご挨拶させていただきます」
ロラがマリウスの前に頭を深く下げる。
「ああ、ありがとう。今日からは彼女がオードラン公爵夫人だ。彼女も他国から嫁いできて慣れないことも多いだろう。これからも彼女にはよく仕えて欲しい」
「存じ申し上げております。我ら侍女一同、公爵夫人には心よりお仕えさせていただく所存です」
ロラが頭を下げたまま言った。
「ロラの言葉だ。信頼している」
「ありがとうございます」
言ってロラが、顔を上げる。
「それはそうとマリウス様、シリアナ様ときたら婚礼衣装を着ても少しも嬉しそうな顔をして下さらないんです。愛する殿方からの言葉と言うものは、女性を心底喜ばせるものです。マリウス様からももっと褒めて、シリアナ様を笑顔にしてさしあげて下さい」
シリアナの肩をロラがぽんと叩く。うつむいて丸まっていたシリアナの背が反射的に伸びる。マリウスと目が合った。
マリウスはいつもは流れるままにしている首筋までかかる明るい金髪を、今日は前髪ごときっちりと後ろになでつけていた。礼服の下服にはぴんと縦に真っすぐ折り目が入り、マリウスの長い脚をさらに長く見せていた。
マリウスが穏やかに笑う。
「今日の衣装は貴女にとてもよく似合っています」
「そう、でしょうか?」
シリアナには自信がない。シリアナは目を伏せた。
シリアナの黒めがちの目は、虹彩と瞳孔の区別がはっきりとせず、夜空よりも暗い漆黒の瞳と白目との対比が鮮やかだった。その瞳はシリアナの感情を豊かに現し、シリアナが感情を高ぶらせたとき強く輝く。それをダナーンにおいては、生意気な顔つきをしているとよく言われた。
馬にのり、野外を駆け回って育ったシリアナの体には適度に筋肉がついていて、しなやかに引き締まっていた。逆に言えば、丸みがなく、女らしい柔らかさは欠けていた。マリウスの書斎で見た肖像画が、コレットその人のそのままの姿を写しとっているとするなら、春の日だまりのような温かさと優しさを持った彼女のような人には、野菊《アスター》の可憐な模様を一面に散らしたこのドレスは似合うだろう。だが、コレットと比べて女らしさの欠片もない自分に、このドレスが似合っているのだとは思えない。
シリアナは顔をうつむけたまま膝の上で両手を強く握る。左手の薬指には、マリウスがシリアナに対する愛を誓った紅榴石の指輪が、紅く、情熱的に輝いていた。
「結婚を前にして、女性が不安になるとはよく聞きます。ですが私は、貴女のことを誰よりも大切に思っています。きっと貴女を幸せにします。私を信じて下さい。そろそろ時間だ。行きましょう」
言ってマリウスはシリアナの前まで歩いてくると、シリアナに向かって手を伸ばした。
シリアナは黙ったままうつむいていて、目の前に差し出されたマリウスの肉厚で大きな手を見つめていた。
「さあ、さあ、シリアナ様」
ロラが両手で軽く、シリアナの肩を押してうながした。
シリアナはマリウスの手を取り立ち上がった。
マリウスが体の横でかるく肘を曲げ、右腕をシリアナに差し出してきた。シリアナはマリウスの右腕に手を絡ませた。
シリアナとマリウスが歩き出すと、ロラが裳裾をまとめて持ち上げついてくる。
部屋を出ると、廊下で会う使用人はみな、一旦仕事の手をとめ、どこかへ向かう足をとめ、祝いの言葉を述べてくる。マリウスはその度に、はれやかな笑みを浮かべ返事をする。
シリアナもマリウスに合わせて笑ってみたが、持ち上げた頬と唇の動きがぎこちない。
もし、マリウスの心を信じきれているならば。シリアナは自分と腕を組み、隣を歩いているマリウスのことを見上げた。
日頃から剣で鍛えている彼の背筋は、しなやかに伸びている。マリウスの背は高い。シリアナとマリウスの身長差は、頭一つ分ほどあった。シリアナの位置からは、マリウスの喉元から顎、そしてほお骨から鼻梁にかけての線を見上げる形になる。
鼻筋がすっと通り、目尻がきりっと上がったマリウスの顔立ちは精悍だった。それはなぜかいつもシリアナに、シリン高原の北にある岩と雪ばかりの山脈で、誇り高く生きる雪豹のことを思いおこさせる。だが今日は、マリウスの目尻は嬉しそうに少し下がり、彼の雄雄しい雰囲気にいくらか柔らかさをくわえていた。
シリアナに与えられた部屋は、東翼の一番奥くにあった。東翼の端から端まで長い廊下を歩ききると天井が一気に高くなり、吹き抜けの玄関広間の壁に沿ってつくられた二階の回廊に出る。
シリアナは回廊から下を見た。出入り口の両開きの大きな扉の前に、使用人頭のレノーが立っている。人の気配に気づいてレノーが回廊を見上げる。シリアナと目が合って、レノーは小さく頭を下げた。
シラールの民であるシリアナは、ダナーンにおいては夜会や貴婦人の開く茶会といった社交の場とはほど遠く、屋敷の中で本を読んだり、王都から少し離れた草原で馬を走らせたりして過ごしていた。そのため、屋敷の中では部屋用のドレスや侍女たちの着るような簡易な服を着て過ごし、馬に乗る時は男装を身にまとい、動きやすい服しか着たことがなかった。
盛装は今日が初めてだ。
花嫁衣装の裾は長い。シリアナは、床とすれ、内側に巻き込んでしまったスカートの裾を、途中何度か踏んでしまいつまづいた。その度に、マリウスの腕をつかんだ左手に力をいれた。するとマリウスの腕全体に緊張が走る。彼の腕がきゅっとしまって硬くなる。彼のたくましい腕が、シリアナの体重を支えてくれた。そのおかげで転ばすにすんだ。
「衣装の裾を軽く蹴るように歩くと楽ですよ」
玄関広間の二階の回廊から一階へ続く階段の前まできて、そっとマリウスに耳打ちされる。
「もっと早くに教えて下さればよかったのに」
シリアナはマリウスのことを軽くにらむ。
「何度か転びそうになったでしょう? その度に貴女に頼られるのが楽しかったものですから。申し訳ありません」
マリウスが笑う。
「意地悪なんですね」
シリアナは、ふい、と顔を反らす。
シリアナによく仕えて欲しいと、ロラに見せたシリアナに対する心遣いや、シリアナのことをからかうのを楽しむ彼の軽口。
マリウスの見せる誠実な態度や、彼とのささいなやり取りに、マリウスは真実シリアナのことを愛しているのだと感じられた。
だが、マリウスが中継ぎの当主であるというオードラン公爵家の内情を考えた時、マリウスの伴侶が男児を生んでは、いずれ家督相続で争いが起きる。けれども、将来シリアナが子を成したとしても、後ろ盾のないシリアナの子では、マリウスの兄クロヴィスと皇帝の愛娘であるコレットの間に生まれたエリクの爵位継承権を脅かす存在にはなり得ない。
シリアナに対しては熱心に愛をささやき、周囲へはシリアナに対しての気遣いを見せているが、家のために丁度よい結婚相手、それがシリアナに対するマリウスの評価なのではないか。そんな疑念がシリアナの心の中にあった。
「だが階段は危ない。貴女を護る自信がないわけではないですが、いつも私が貴女の側にいるとは限りません。もしもの時のために、片手は手すりにそえて降りるようにして下さい」
「ええ」
左側からマリウスに礼護され、伸ばした右手を軽く手すりに添える。足を前に軽く蹴り出し、花嫁衣装の裾を踏まないように注意しながら、ゆっくりと階段を降りる。
階段を降りきり、扉の前までくるとレノーが深深と頭を下げた。
「おめでとうございます旦那様。差し出がましいとは存じますが、シリアナお嬢様におかれましては、旦那様のことを末永くよろしくお願い申し上げます」
「もちろんです」
シリアナは意識して頤を上げ、レノーに応える言葉を続けた。
「ですが今、私が異国の地で何不自由なく暮らせるのもマリウス様のお陰です。わたくしの方こそ、オードラン公爵家のみなとマリウス様の心遣いには感謝しています」
謝意と敬意は示しても、主が使用人に頭を下げてはいけない。
屋敷の秩序を守るため、使用人と主、その序列は大切なものだから。
シリアナはオードラン公爵家にきて生まれて初めて、侍女たちからあれやこれやと身の回りの世話を焼かれた。
シリン高原の自然は厳しい。雪が雨に変わりはじめると、新芽が芽吹き、地面は地平線の先まで、濃淡を持った緑一色で染められる。草を食べる家畜は肥えはじめるが、夏になれば乾燥し、せっかく芽吹いた草も枯れてしまう。夏が訪れてから、シリン高原の北に位置する山脈から冷たい風の吹き下ろしてくるまでの期間は短い。北風の中に湿った匂いを感じるようになると、すぐに雪が降り始める。冬はひどく冷え込み、毎年、力のない老人や風邪をこじらせた子供が死んでいった。家畜は家族に属する財産ではあったが、困ったことがあれば人人は、気軽に持っているものを分け合う。少ない食料や物資を誰かが独占しては、厳しいシリン高原の冬は乗り切れない。部族の中で人人の立場は対等だった。バズド族の中で暮らしていたころは、族長の孫娘だからと言って特別扱いされることはなかった。
それにダナーンの異母兄の下に身を寄せてからも、屋敷に仕える人人はシリアナを蛮族の娘と見下げて、最低限の世話しかしなかった。
しかし、オードラン公爵家の人人は皆優しかった。異国から嫁いできたシリアナでは、帝国の礼儀やしきたりに慣れないだろうと、シリアナが礼儀に叶わぬ行いをしてもあざけることなく受け入れ、その度に正しい振る舞いを教えてくれた。
シリアナは人から好意を持って仕えられることに慣れていなかった。オードラン公爵家へきてから数日、シリアナは使用人達の優しさに恐縮しきりだった。それではいけないとロラに注意された。
以降シリアナは、使用人達に感謝の意は伝えても、彼らの前では常にぴんと背筋を伸ばして胸を張り、卑屈に見えないよう心がけている。
「旦那様、馬車を表に回しています」
「ああ」
レノーの言葉に、マリウスが頷く。
「それではいってらっしゃいませ」
言ってレノーが扉を開いた。
玄関のすぐ前に馬車があった。オードラン公爵家の紋章である双頭の鷲の意匠を施した黒塗りの箱馬車は、シリアナが王城からこの屋敷に連れられてきた時に乗せられたものだった。
馬車には二頭の馬がつながれていた。二頭は同じ色の明るい茶褐色の体毛を持っていた。二頭とも、頭から膝のあたりまで均一な色をした茶褐色の毛で覆われ、四肢の先に向け徐徐に黒みが強くなっていた。よく手入れされた被毛に汚れはなく、朝の清清しい陽光を反射して美しく輝いていた。馬は行儀よく並んで立ち、御者台に座る御者の指示を大人しく待っていた。
マリウスはシリアナの腕を解き、馬車の前まで行き扉を開ける。
「シリアナ」
マリウスは昇降板の横に立って、シリアナに手を差し出した。
シリアナはマリウスの手に自らの手を重ね、馬車に乗りこんだ。
ドレスの裾と裳裾を皺にしないように気をつけながら、馬車の後ろに座った。
その後からマリウスが馬車に乗りこみ、シリアナと向かい合わせの席に座り扉を閉めた。
「出してくれ」
マリウスが背後にあった小窓を少し開け、御者に声をかけた。
御者が、はいと言う。
御者は馬に向かってかけ声をかけ、持っていた鞭で馬の尻をたたいた。
馬車がゴトリと音を立てて動き出す。
マリウスは窓を閉めて座席に座り直した。
「今日のことは聞いていますか?」
マリウスがシリアナに問いかけてきた。
「はい。大体のことはロラから聞きました。帝都にある大神殿へ行きまずは改宗をし、マリウス様と結婚の誓いを立てると。入信式と結婚式の手順についてもロラから教わりました」
「それはロラから聞きました。彼女は貴女によくしてくれましたか?」
「はい」
シリアナは応える。
マリウスはにっこりと笑って頷き、すぐに真面目な顔になった。
「だが、貴女には本当に申し訳ない」
「なぜですか?」
「貴女は、ダナーン聖公国においても、ダナティアは信仰しなかったのでしょう? それを無理矢理改宗させてしまって」
「いいえ」
シリアナは首を振る。
「半分とはいえ、わたしにはバレ王家の血が流れています。確かに、ダナティアへの信仰を誓えば、王家の一員としては認められなくとも、ダナーン族の一人としては認められ、故国での生活も少しは楽になったかもしれません。実際異母兄にも改宗を勧められました。でも、そのことについては、特別強い思いがあったわけではないんです。あの頃のわたしは、神も何も信じていませんでしたから。バズド族が滅んだ時に逃げ延びず、みなとともにわたしも死んでしまえばよかったと、ただ、流れ去る時に身を任せ、いつこの命がつきるのだろうかと、それだけを思っていました。
わたしはずっと、一人生き残ったことは部族への裏切りだと信じていました。でも改宗してしまえば、シリン高原で過ごしたすべての時を捨て去ってしまうような気がして、一人生き残ってしまったことにどんなに後悔の念があるとしても、バズド族の一員として過ごした日日はわたしにとってはとても大切なもので、それだけはできませんでした。改宗するくらいであれば、自害してもよいと思っていましたから」
「ではなぜ、今日のことに頷いてくれたのですか? 改宗は、貴女にとっては堪え難いことでしょう?」
「ダナーンにいた頃のわたしであれば、そうだったと思います」
「今は違う?」
「ええ。バズド族もダナーンも滅びました。この国で生きて行くのが、今のわたしの運命なのだと納得しています」
「運命、ですか? 故郷が滅び、純血主義の強いダナーンで人人から様様な目を向けられて過ごしてきた貴女の気持ちは私にはわかりません。でもいつか、自分の人生はこの国にあるのだと、貴女が思えるようになってくれればと私は願っています」
マリウスが真っ直ぐにシリアナのことを見つめてくる。その強い視線に居心地の悪さを感じ、シリアナは顔をふせ、両手を膝の上で強く握った。左手の薬指には、マリウスが愛を誓った石榴石の指輪があった。
オードラン家の屋敷から神殿まで距離はなかった。帝都の大通りを通り、馬車はほどなくして神殿についた。
神殿の入り口にの左右には、人の背丈より少し低いくらいの高さの台座の上に、鷲の頭にライオンの体、そして大きな翼をもった生き物の彫刻が、向かい合わせで置かれていた。そこから、両脇に砂利のしかれた石畳の参道が長く続いている。砂利の上を薄汚れた粗末な衣服をまとった多くの人が歩いていた。
「この場所に、二頭のグリフィンが引く二輪戦車に乗った唯一神バティストが降り立ち、皇室の始祖であるオディロンに国をつくるようにと告げた言われています。ここは信仰の中心です。そのため帝国中から人が参詣にくるんです」
シリアナが馬車の窓から外を見ていると、マリウスが言った。シリアナはマリウスに視線をうつした。
「参道の東横に、彼らのための祈祷所と帝都に住む人人のために神官たちが日日の祈りを捧げている神殿がありますが、今日は前庭にある神殿で、あなたの入信式と結婚式を行うことになっています」
「式の進め方についても、ロラたちと練習しました」
ロラを神官に侍女の一人をマリウスに見立てて、礼拝堂への入場から退場まで、入信式と結婚式の式次第にそった立ち居振る舞いを何度も練習した。その時に、帝国の信仰や教義についても大まかなことを教えられた。
「大丈夫ですよ、緊張しなくても。今日の式には列席者はいません。神官の指示に従って動けば、多少の失敗をとがめる人はいません」
「そうですね」
シリアナはマリウスの言葉に、少しだけ笑って応えた。
参道の奥には石造りの大きな門があった。その両脇に長い槍を持つ兵が立っていた。
門は弧状になっていた。門は木製の扉によって閉ざされていたが、馬車が二台すれ違ってもいいだけの十分な広さがあった。
御者がオードラン家の馬車だと告げると兵が動き、重そうに両開きの木戸を開ける。兵の一人が通るようにと言う。御者はそれに応え、馬車を動かす。馬車は門をくぐり抜けた。
門の入り口から石畳の道が真っ直ぐに続いていた。参道の左右には背の高い樫の木が植えられていた。樫の木は、小枝の端まで初夏の瑞瑞しい色をした緑の葉で覆われていて、石畳の上に涼やかに影を落としていた。
馬車は全体に木漏れ日を映して参道を進み、前庭の奥にある神殿の前で止まった。
御者が扉を開ける。マリウスが身軽な動きで先に降りる。シリアナはマリウスに助けられて、昇降板を使い地面に足を下ろした。
全て白い大理石でできた神殿は、伝統的な古代ヘルク調の建物だった。
長方形をした神殿の周囲には、上に向かって次第に細くなっていく円柱が等間隔に並び、平べったい三角柱を横に倒した形の屋根を支えていた。柱の奥には天井までの高さがある壁が造られていて、中を覗くことはできない。柱の側面には縦に伸びる細い溝が何本も彫られていた。柱の上と下には繊細な模様の彫刻が施されていた。柱の上から屋根の間の三角形になった部分には、二頭のグリフィンの引く二輪戦車に乗った唯一神バティストが、その前に跪くオディロンに宣託をしている場面を描いた浮き彫りがあった。
神殿の正面から地面へ向かって造られた階段の上に、一人の神官が立っていた。背の低い、人の良さそうな顔をした神官が、小さく会釈した。マリウスがそれに返す。マリウスの腕に左手を預けたまま、シリアナはそれを真似して頭を下げた。
「お待ちしておりましたよ、オードラン公爵」
「まさか、大神官自ら今日の式を執り行ってくださるとは思っていませんでした」
マリウスが言う。
大神官は帝国の信仰の頂点にいる。その大神官がなぜ今ここにいるのか。シリアナは慌ててマリウスの顔を見たが、マリウスは笑みを浮かべたまま大神官の方を見ていた。
「今日のことについてはコレットから手紙を受け取りました。可愛い姪に頼まれては否とは言えません。それに、今日の式を大神官が執り行ったとみなが知れば、そちらの愛らしい花嫁にも箔がつくことでしょう。
オードラン公爵、今日、貴方の花嫁となる幸せなお嬢さんを私に紹介してはいただけませんか」
大神官が、シリアナのことを見てにこりと笑う。シリアナは思わず身を退いた。
「大神官様、隣にいるのが、今日これから私の妻となるバズド=ナキ・バジス=アミ・ダナ=アミ・スレ・シーリーン・スレ・アナです。シリアナ、そちらにいらっしゃるのが、皇帝陛下の弟君でもあらせられる大神官のアダルブレヒト様だ」
「よろしくお願い申し上げます」
シリアナはマリウスの腕から手を外すと、両手でスカートを少しだけ持ち上げ、その場で礼をした。
「ご丁寧にありがとうございます。いつまでも立ち話と言うわけにはいけません。早く入信式と結婚式を始めましょう。オードラン公爵にシーリーン・スレ・アナ嬢、さあ、こちらへ」
大神官は体を横にすると、左手を水平に上げて体を開き、柱の奥の壁にある、開いたままになっていた木製の扉を示した。
シラールの民は自らの名を告げる時、部族の名の後に、氏を母方、父方の順で名乗り、最後に親から与えらえた名を付け加える。母親に夫が複数いる場合は、母親の夫の氏をすべて名乗るが、母親が婚姻していなければ氏は名乗れない。氏のない者には、相続権はなかった。財産は父親から、氏は母親から継ぐものだった。
ダナーンや帝国では、名は親から与えられた名と家名からなる。シラールの民の名は、帝国のものとは全く違う。
シリアナは、大神官が正確に自分の名だけを言ったのに驚いて、柔和な大神官の顔を見つめたまま足を踏み出すのを忘れる。
「――シリアナ?」
先に歩き出したマリウスが、振り返って言う。シリアナは軽く首を振り、マリウスの右腕に手をそえた。
それを見て、大神官が扉の方へ歩き出す。大神官の後に続いて歩くマリウスに導かれるまま、シリアナは階段を上った。
入信式と結婚式はあっけないほど簡単に終わった。
有に千人は入れそうな広い神殿の中には、シリアナとマリウスの他に、大神官とそれを補佐する二人の侍者以外、誰もいなかった。
壁の高い場所には、腕を左右に開いたほどの高さのはめ殺しの窓が横一列に並んでいた。そこから差し込む日の光が、やさしく神殿内を照らしていた。
神殿の一番奥は、周囲から一段高くなっていた。長方形の段の出入り口側の辺の真ん中に、白い大理石で造られた祭壇があった。祭壇の左右に侍者が控え、祭壇の前には大神官は立っている。大神官の後ろには、唯一神バティストに特別に恩恵を賜った初代皇帝オディロンが、一度天寿を全うした後よみがえり、黄金色に輝く雲をかき分け、肉体を持ったまま天に昇っていく姿が描かれた、天井までの高さがある屏が立てられていた。
シリアナの向かって右に立っている侍者の横には、背もたれのない、座面に真紅の天鵞絨が張られた椅子があった。その上に、錫の鐘が伏せて置かれていた。侍者は、鐘の上から伸びた細い持ち手を、三本の指ではさんで持ち上げ、鐘を二三度軽く振ふった。澄んだ音がした。鐘が鳴り止むと、侍者は鐘を椅子に戻した。
大神官はゆったりとした動作で腕を左右に大きく開き、手を胸の前で合わせると、厳かにシリアナの入信式を始めることを告げた。
入信式の間、マリウスはシリアナの後ろにいた。大神官が、バティストを唯一人の神として信じるかとシリアナに訊ねる。シリアナは諾と返事をする。入信式はそれだけで終わった。
結婚式に移ると、シリアナとマリウスの二人は並んで祭壇の前に立った。結婚式は、大神官がシリアナとマリウスの二人に結婚の意思を確認し、二人がそれに同意した後、結婚宣誓書にそれぞれが名を記入して終わる簡単なものだった。
乗ってきた馬車でオードラン家の屋敷に戻ると、ロラによって純白の花嫁衣装から旅用の、スカート部分が大きく広がらない、靴が見えるほどに裾の短い動きやすい服に着替えさせられた。既に準備はできているからと、玄関前にとまった馬車のところまで、オードラン公爵家にきてからロラと一緒にシリアナの世話をしていた侍女のリーズとともに連れて行かれる。
玄関前で待っていた馬車は、朝神殿に行くときに乗ったものに比べると幾分質素なものだった。オードラン公爵家の紋章は入っているが、馬車の前輪の上に小さく入っているだけで、誰の馬車なのか一目では分かりにくい。馬車には、前に二人、後ろに三人、騎馬の護衛がついていた。
ロラに急かされ馬車に乗る。
馬車の中は、三人掛けの座席が向かい合うようになっていて、シリアナとリーズの二人が乗るには十分に広く、座席と座席の間にある扉の上に小さな窓がついていた。
リーズがシリアナの後から乗り込んできて、御者台を背にした席に座る。外から扉が閉められるなり、リーズは扉の上の窓を開けて、外を見るようにシリアナを促す。
シリアナは窓際に寄り、少し腰を浮かせて開いた窓から外を覗いた。
窓の下にマリウスがいた。
「護衛の者はつけましたが、街道に出れば何があるかわからない。一番目立たない馬車を選びました。道中の無事をバティストに祈っています」
「ありがとうございます」
シリアナは小さく礼を言う。
「義姉上にもご無沙汰しているし、エリクの様子も気になるので、本当は私も一緒に行きたいのですが、先の戦の片付けで、まだまだ落ち着かない。もうしばらくしたら、必ず領地へ向かいます」
「私のことなどお気になさらずに。マリウス様のお邪魔になることは望んでおりません」
「つれないことを言わないで下さい。せっかく夫婦になれたんだ。私はいつも貴女のことを思っています。手紙を書きます。きっと返事を下さい」
「はい」
シリアナは小さく頷く。
「約束だ。手を」
マリウスに言われ、馬車の小さな窓から指先だけを出す。その手にマリウスが口づけた。
「貴女は私の妻だ。愛しています」
シリアナの手の甲から顔を離してマリウスが言う。
「わたしもです」
シリアナはうつむいて応える。
「マリウス様、新妻とお別れになるのがお辛いのは十分に存じておりますが、奥様を早く出発させてさしあげないと、日が暮れるまでに宿にお着きになれませんよ」
シリアナを見送りに出ていたロラが口を挟む。マリウスは名残惜しそうに、シリアナの手を放した。
「そうだな。日が落ちて街道を行くのは危ない。お前たち、決して無理はしないように」
マリウスが、護衛と御者に向かって言った。
「承知しております。公爵夫人の身は命に代えてもお守りいたします」
右前方の騎馬の男が振り返って、マリウスに言った。
「信じている。――それではシリアナ気をつけて。行け」
マリウスの言葉に、御者が馬に鞭を打った。馬車の車輪が動き出すのと同時に、前後の騎馬も歩き出す。
「シリアナ、必ず貴女に会いに行く」
動き出した馬車に向かって、マリウスが言った。シリアナは小さく頷いて返事をし、窓から離れ、座席に腰を落ち着けた。リーズが窓を閉める。
馬車の車輪が回る音と前後を行く騎馬の蹄鉄の音だけが、馬車の中に響いている。
マリウスは本当は誰に会いたいのだろうか。
シリアナは、石榴石の指輪を触って考えた。
「お綺麗ですわ」
後ろに立った痩せ気味の侍女が、シリアナの頭に仕上げの白い薄布を被せて言う。
オードラン公爵家のお仕着せを身につけた彼女は、大部分が白くなってしまた髪を一筋の後れ毛もなく後頭部の上に丸くまとめていた。
彼女の名はロラ。オードラン公爵家に嫁したマリウスの母につきしたがい、公爵家へとやってきた女性だ。
「マリウス様もやっとご結婚なされる気になって、安心いたしました」
ロラはシリアナに被せた薄布の縁を軽く摘んでは放し、形を整えている。鏡に映ったロラの顔が、目尻の皺を深くして嬉しそうに笑っていた。
「マリウス様はもう、ご結婚はすっかりあきらめていらっしゃるものと思っておりました」
無邪気に喜ぶロラの顔を鏡越しに見つめ、シリアナは閉じた唇をきゅっと結ぶ。
周囲から望まれた結婚ではない。
マリウスが皇帝にシリアナを望んだ時、甥エリクをマリウスの養子に迎え、オードラン公爵家の跡継ぎとすることが条件だったと聞いた。
オードラン公爵家の祖は、第二代皇帝グレゴワールの弟だったと言う。
敗戦国の女の血が、由緒正しいオードラン公爵家に受け入れるはずがないのは当然だった。
「まあ、まあ、花嫁がそんなに怖い顔をなさって。緊張なされるのはわかりますが、今日は女性にとって生涯で最も忘れ得ぬ日となるのですから、もっと幸せそうな顔をなさいませ。その方がマリウス様もお喜びになるに違いありません。なにせマリウス様ご自身が、貴女様との結婚を望まれたのですよ」
言ってロラが、シリアナの両肩に手をのせる。
「結婚式の主役は花嫁と決まっています。もっと胸を張って堂堂となさいませ。マリウス様にこんなに美しい女性を妻にできるなんて、自分はなんて幸せものなんだと思わせないといけません」
ロラはシリアナの頬に自身の頬をよせ、自らが着飾ったシリアナの出来を見てほほ笑んだ。
「貴女様がこちらのお屋敷にいらっしゃった翌日、二十日後に結婚式だとマリウス様がおっしゃられて、突然のことで衣装はどうしようかと悩みましたが、コレット様の婚礼衣装がぴったりでよかった。いくら陛下にお許しをいただこうとも、神の前で誓わなければ、自然に認められた夫婦とはもうせませんものね」
シリアナは椅子に座った自分の体を見下ろした。
袖も肩紐もない前身頃の上の部分は、中心が一番高くなる形でゆるやかに湾曲し、胸元を鎖骨の下まで覆っている。長いスカートの部分はゆったりと襞を描き、シリアナの身長の倍はある裳裾をひいていた。
ドレスは純白の絹地の上に、目の細かい透布を重ねてつくられていた。透布には象牙色の糸で、野菊とその葉をかたどったの模様が一面に刺繍されている。
頭から足下までを覆う薄布の縁にもドレスと同色の糸で、野菊の模様が刺繍されていた。
スカートの部分はあまり膨れ上がらずにすとんと下に落ちている。華美な花嫁衣装ではなかったが、すっきりとした線形の意匠から品の良さが漂うドレスだった。
「皇女の方方は徽章に花の模様を用いるものですが、コレット様は野菊をお使いでした。ご結婚のお祝いにと、当代第一と言われる職人に皇帝陛下直直に申しつけて、この衣装をご用意されたのですよ。
マリウス様のご結婚の知らせを受けたコレット様から、ぜひにこの衣装を使って欲しいとお手紙をいただきました」
「―そう。わたくしを受け入れてくださって、ありがたいことね。でも、今日の式にはいらっしゃらないのでしょう?」
「ええ。一昨日早馬が参りまして、エリク様が熱を出されたとか。看病のためこちらへはいらっしゃらにとのことでした。夫であったクロヴィス様が亡くなって以来、コレット様は領地から一度もお出になったことはありません。わたくしももう何年もお会いする機会をいただくことがなくて、久しぶりにお会いできると思っておりましたのに残念ですわ」
ロラがあからさまにため息をついた。
「あなたはオードラン公爵夫人のことを随分と慕っているようね」
鏡の中のロラの顔を見ながら、シリアナは言った。
「当然です。お優しくて美しい、愛情深くとても慈愛に満ちたお心をお持ちの方で、あんなすばらしい方、そうはいらっしゃいません。この屋敷の誰もが、いえ、一度でもお会いしたことのある誰もがお慕いもうしあげておりますわ」
「そう」
言ってシリアナは、一度だけ入ったマリウスの書斎を思い出した。
南向きの書斎は、扉を入った反対側がすべて窓となっていた。昼間緞帳を開け放っている時に訪れたため、開放感があった。
寄木細工の床はよく磨かれ、飴色に輝いていた。窓があるのとは違う三方の壁は、ぎっしりと本のつめられた天井まで届く本棚で覆われていた。桃花心木で造られた本棚は、年代を経て鈍く焦げ茶色に輝き、部屋全体に重厚感を与えていた。
窓を背に置かれた机のすぐ後ろの柱に、古代ヘルク風の、上位五分の一ほどを外側に折り返して体にまきつけた白い布を、左右の肩でブローチでとめ、落ちてしまわないように腰にまいた紐で固定した、ゆったりとした衣装を身にまとった女性の姿を描いた肖像画がかけられていた。
その絵に描かれた女性は、斜め横を向いて立っていた。彼女はわずかに顔をうつむけ、正面に向け艶かしく腰をひねっていた。彼女の結い上げられていない黄金色の髪は豊かに波打ちながら、白鳥のように細く長い首の後ろを隠し、背の中程まで流れていた。彼女は左手を腿のあたりに置き、衣装の裾を軽くつまんで持ち上げていた。右手は肘を軽く曲げて前へ出し、掌を上へ向け、親指と人差し指と中指で一輪の野菊を縦にして持っていた。
その絵の中で最も特徴的なのは、伏し目がちにこちに向けられた彼女の紫水晶色の瞳だった。
紫水晶色の瞳には、長い睫毛の影がかかっている。紫水晶色の瞳は穏やかさと慈愛に満ち満ちていて、絵の前でいつまでも彼女に見つめられていたい、そんな気分にさせられる。
部屋に入るなりシリアナは、その絵に目をとめ立ちすくんでしまった。
整った顔立ちには表情がなく、彼女の感情は伺えない。その中で紫水晶色の瞳だけが唯一、描かれた女性の性格を表していた。
「何か用ですか?」
マリウスに声をかけられはっとする。
シリアナは、女性の肖像画のちょうど下、書斎の大きな机の椅子に座っていたマリウスに視線を向けた。
「はい。お渡ししたいものがあって参りました。お邪魔でしたでしょうか」
筆置きに置かれた筆と、マリウスの前に広げられた便せんを見て訊く。
「いいえ。貴女の訪れならいつでも大歓迎です。それで、私に渡したいものとは」
「はい」
シリアナは頷いて、マリウスの座る机の前までいく。
マリウスの前に手を差し出し、拳をつくっていた右手を開いた。
「これは?」
マリウスはゆったりと椅子に腰掛け直すと、体の横に肘を張り、胸の前で両手を組んで訊いてきた。
シリアナの掌には、オオカミの牙でつくられた首飾りが載せられている。マリウスに初めて抱かれた部屋を後にするときに見つけ、持って出た。こびりついた汚れは拭き取り綺麗にし、紐は新しいものに取り替えた。
「お守りです。シリン高原に住む人人はみな、オオカミとシラールの民はシーリーン女神の子供であり、兄弟だと信じています。人は火をつかい家畜を飼うことを覚え、自然から離れる道を選びました。オオカミは獣として自然の中にとどまり、シリン高原の北にある山脈の中でも最も高い山、カムル山の頂におわすシーリーン女神の使者として、世界とシーリーン女神をつなぐ役割をしているのだと言います。
ですがオオカミは家畜を襲います。シラールの民は天幕のそばでオオカミを見つけるとすぐに殺します。その後でオオカミの皮をはぎ、体は天幕から少し離れた場所にさらし、空を自由に飛び回る禿鷲に食べさせることで、シーリーン女神の下までオオカミの魂を運んでもらいます。
オオカミの遺体を葬儀場に持っていく前に、遺体から一番大きな牙だけをとっておき、その根元に部族に伝わる文様を彫り、風の巫女に祝福を与えてもらいます。それを常に身に付けることで、身近にシーリーン女神と自然の存在を感じ、お守りとするんです。これは代代家族に受け継がれます。わたしはこれをバズド族が滅びた晩、婚約者から受け取りました。
これは、わたしにとってはわたしの出自をあらわす大切な品です。マリウス様はお嫌かもしれませんが、今はマリウス様に持っていていただきたいと思っています。これから先の人生を、わたしはマリウス様の妻としてマリウス様に捧げる覚悟です。これはわたしのその心をマリウス様にしめす誓いの品です」
「私と家族になってもらえる、そういうことですか?」
背もたれに深く体預け、組んだ両手はそのままに、肘掛に肘をのせ、マリウスが見上げてくる。
「はい」
シリアナは頷いた。
「では、喜んで受け取りましょう」
言ってマリウスは、シリアナの掌からオオカミの牙の首飾りを取り上げ、自らの首にかけた。
「これを貴女だと思って大切にします」
首飾りにつけられたオオカミの牙を親指と人差し指で触りながら、マリウスが言った。
「ありがとうございます。それでは失礼いたします」
シリアナは一礼し、部屋を出るため踵を返そうとした。
「待ってください」
マリウスが呼びとめる。
「本来であれば結婚式の後に渡すべきものなのでしょうが、貴女がわたしに私と夫婦になるという心をしめしてくれたのです。私からも誓いをしなければ不公平というものでしょう。今、私が誰に手紙を書いていたかわかりますか?」
シリアナはマリウスの前に広げられた便せんをちらりと見る。細かく文字が書かれているのは見えるが、シリアナの場所からでは何が書いてあるのかまで判別することはできない。シリアナは首を振った。
「義姉上に手紙を書いていたところです。貴女との結婚の知らせをしたところ、義姉上から祝辞をしたしめた手紙いただきました。それと一緒に、貴女へと義姉上から預かったものがあります」
マリウスは言って、机の引き出しを開け、そこから何か取り出す。
「これです」
マリウスがシリアナの前に手を差し出してきた。マリウスは親指と人差し指で指輪をつまんで持っていた。
その指輪には、小指ほどの幅はある金の輪の中心に、楕円型の固まって乾きかける寸前の血のように濃い暗赤色をした大粒の紅榴石が置かれていた。楕円型の紅榴石の両脇には、小粒の丸型の紅榴石が四つつけられ、指輪の下地の金を隠している。四列に配された小粒の紅榴石が、輪の中程まで並んでいる。中心の大粒の紅榴石の深い赤色から、その左右に配された小粒の紅榴石の、一番最後の石の闇夜に燃える炎のような明るい緋色まで、見事な階調をなしていた。
「オードラン公爵家の女主人に代代伝わる指輪です。オードラン公爵家の祖であるドニが恋人、やがては妻となったオレリーに、彼女へ向けた情熱をあらわすために贈ったのだと言われています。夫婦の愛の証しとして、オードラン公爵家では当主の妻にこれが代代受け継がれてきました。私も我が家の伝統に習い、私の生涯と愛と忠誠を貴女に捧げることを、この指輪とオードラン公爵家の名にかけて貴女に誓います」
マリウスは椅子から立ち上がると、机を周りシリアナの隣にくる。
シリアナは体ごとマリウスの方を向いた。
マリウスがシリアナの前に跪く。
「手を」
マリウスに言われ、シリアナは左手を出す。マリウスはその手を取り、手の甲に一度口づけると、シリアナの左手の薬指に指輪をはめた。
「私の心は常に貴女とともにあります」
マリウスは言い、シリアナの手につけたばかりの指輪の中心にある紅榴石に口づけ、立ち上がった。
「貴女は今日からオードラン公爵夫人だ」
「よいのですか? 由緒ただしいオードラン公爵家の公爵夫人となるのが私で」
「悪いもなにも、当主である私が決めたことです。誰にも文句は言わせません。それに義姉上も祝福して下さっている。この家に、貴女を迎え入れることを嫌う人間など一人もいません」
シリアナは顔をうつむける。
手紙にこそ当主の結婚を祝福する言葉を書いてきたが、敗戦国の王族の血をひく女を次のオードラン公爵夫人とするのは我慢ならない。これ以上、オードラン公爵家にはいられない。そんな気持ちでコレットは、マリウスにオードラン公爵家に代代伝わる指輪を預けたのではないのだろうか、そんな不安が頭をよぎる。
「それはそうとシリアナ、貴女には結婚式が終わり次第、オードラン公爵家の領地へ行って欲しい」
マリウスに言われ、シリアナは顔を上げる。
「この国の作法やしきたりに貴女はまだ慣れないでしょう? 結婚式には義姉上と甥のエリクだけを呼ぶことにしました。結婚式が終わったら義姉上とエリクとともに領地へ戻り、そこで義姉上からこの国の作法や宮廷での礼儀について学んで欲しい。秋も深まれば社交の季節がやってきます。その時には帝都へ戻ってきて下さい。私の妻として、みなに貴女を披露するつもりです」
「そのことについて、公爵夫人は何とおっしゃられているのですか?」
「手紙には、喜んでその役を引き受けてくださると書いてありました」
「―ですが……」
本当にコレットは、シリアナがオードラン公爵家に入ることをよしとしているのだろうか。
シリアナは顔をうつむけ、視線だけを上げてマリウスのことを見た。
「大丈夫です。義姉上のことを知らない貴女がいろいろと心配するのは最もですが、義姉上はとてもお優しい方です。この部屋に入ってくるなり、貴女は机の後ろの柱にかけられた絵をじっと見ていましたね。あれは義姉上の肖像画です。あの絵は、義姉上の結婚の祝いにと陛下が兄に下さったものです。
当代随一とよばれる画家のアベルが描いたものですが、あの絵は義姉上のことをよく写し取っている。あの絵の通り、義姉上は愛情に満ち満ちた方です。
シラールの民であり、ダナーン聖公国の王家の血をひく貴女の出自は複雑すぎる。手紙にはただ、貴女のことはダナーン聖公国の王女の侍女とだけ書いておきました。ですが、すべてを知っても義姉上は、貴女のことを嫌うことはありません。これからのことは安心して私に任せてはくれませんか?」
そうシリアナに言ってから、マリウスは横目でちらりとコレットの肖像画を見た。その瞬間、マリウスの瞳に深い思慕の念が浮かんだのをシリアナは見逃さなかった。
マリウスの心はどこにあるのだろう。
目の前の鏡に映る花嫁の顔は少し沈んでいて、とても幸せそうに見えない。
部族の滅亡を前に一人だけ逃げ出した自分が、愛を望むのはやはり間違っていたのだろうか。
シリアナはため息をつく。
と、部屋の扉が二三度叩かれた。
ロラが扉を開ける。黒い礼服に身を包んだマリウスが入ってきた。
「屋敷の前に馬車を用意しています。そろそろ準備ができた頃合いだと思って迎えにきたのですが―」
シリアナの姿をじっと見つめて、マリウスが息をのむ。
「想像以上に美しい」
ほっと吐き出された息とともに、マリウスが言った。
「当然です。婚礼というのは女にとっては一生で一番大切な日ですからね。それにオードラン公爵家当主の花嫁となられるお方です。いくら突然決まった結婚とは言え、オードラン公爵家の花嫁がみじめな姿をしていては世間に笑われます。侍女一同、心をこめてご用意させていただきました。
改めましてマリウス様、ご結婚おめでとうございます。恐れながら、オードラン公爵家の侍女の代表としてご挨拶させていただきます」
ロラがマリウスの前に頭を深く下げる。
「ああ、ありがとう。今日からは彼女がオードラン公爵夫人だ。彼女も他国から嫁いできて慣れないことも多いだろう。これからも彼女にはよく仕えて欲しい」
「存じ申し上げております。我ら侍女一同、公爵夫人には心よりお仕えさせていただく所存です」
ロラが頭を下げたまま言った。
「ロラの言葉だ。信頼している」
「ありがとうございます」
言ってロラが、顔を上げる。
「それはそうとマリウス様、シリアナ様ときたら婚礼衣装を着ても少しも嬉しそうな顔をして下さらないんです。愛する殿方からの言葉と言うものは、女性を心底喜ばせるものです。マリウス様からももっと褒めて、シリアナ様を笑顔にしてさしあげて下さい」
シリアナの肩をロラがぽんと叩く。うつむいて丸まっていたシリアナの背が反射的に伸びる。マリウスと目が合った。
マリウスはいつもは流れるままにしている首筋までかかる明るい金髪を、今日は前髪ごときっちりと後ろになでつけていた。礼服の下服にはぴんと縦に真っすぐ折り目が入り、マリウスの長い脚をさらに長く見せていた。
マリウスが穏やかに笑う。
「今日の衣装は貴女にとてもよく似合っています」
「そう、でしょうか?」
シリアナには自信がない。シリアナは目を伏せた。
シリアナの黒めがちの目は、虹彩と瞳孔の区別がはっきりとせず、夜空よりも暗い漆黒の瞳と白目との対比が鮮やかだった。その瞳はシリアナの感情を豊かに現し、シリアナが感情を高ぶらせたとき強く輝く。それをダナーンにおいては、生意気な顔つきをしているとよく言われた。
馬にのり、野外を駆け回って育ったシリアナの体には適度に筋肉がついていて、しなやかに引き締まっていた。逆に言えば、丸みがなく、女らしい柔らかさは欠けていた。マリウスの書斎で見た肖像画が、コレットその人のそのままの姿を写しとっているとするなら、春の日だまりのような温かさと優しさを持った彼女のような人には、野菊《アスター》の可憐な模様を一面に散らしたこのドレスは似合うだろう。だが、コレットと比べて女らしさの欠片もない自分に、このドレスが似合っているのだとは思えない。
シリアナは顔をうつむけたまま膝の上で両手を強く握る。左手の薬指には、マリウスがシリアナに対する愛を誓った紅榴石の指輪が、紅く、情熱的に輝いていた。
「結婚を前にして、女性が不安になるとはよく聞きます。ですが私は、貴女のことを誰よりも大切に思っています。きっと貴女を幸せにします。私を信じて下さい。そろそろ時間だ。行きましょう」
言ってマリウスはシリアナの前まで歩いてくると、シリアナに向かって手を伸ばした。
シリアナは黙ったままうつむいていて、目の前に差し出されたマリウスの肉厚で大きな手を見つめていた。
「さあ、さあ、シリアナ様」
ロラが両手で軽く、シリアナの肩を押してうながした。
シリアナはマリウスの手を取り立ち上がった。
マリウスが体の横でかるく肘を曲げ、右腕をシリアナに差し出してきた。シリアナはマリウスの右腕に手を絡ませた。
シリアナとマリウスが歩き出すと、ロラが裳裾をまとめて持ち上げついてくる。
部屋を出ると、廊下で会う使用人はみな、一旦仕事の手をとめ、どこかへ向かう足をとめ、祝いの言葉を述べてくる。マリウスはその度に、はれやかな笑みを浮かべ返事をする。
シリアナもマリウスに合わせて笑ってみたが、持ち上げた頬と唇の動きがぎこちない。
もし、マリウスの心を信じきれているならば。シリアナは自分と腕を組み、隣を歩いているマリウスのことを見上げた。
日頃から剣で鍛えている彼の背筋は、しなやかに伸びている。マリウスの背は高い。シリアナとマリウスの身長差は、頭一つ分ほどあった。シリアナの位置からは、マリウスの喉元から顎、そしてほお骨から鼻梁にかけての線を見上げる形になる。
鼻筋がすっと通り、目尻がきりっと上がったマリウスの顔立ちは精悍だった。それはなぜかいつもシリアナに、シリン高原の北にある岩と雪ばかりの山脈で、誇り高く生きる雪豹のことを思いおこさせる。だが今日は、マリウスの目尻は嬉しそうに少し下がり、彼の雄雄しい雰囲気にいくらか柔らかさをくわえていた。
シリアナに与えられた部屋は、東翼の一番奥くにあった。東翼の端から端まで長い廊下を歩ききると天井が一気に高くなり、吹き抜けの玄関広間の壁に沿ってつくられた二階の回廊に出る。
シリアナは回廊から下を見た。出入り口の両開きの大きな扉の前に、使用人頭のレノーが立っている。人の気配に気づいてレノーが回廊を見上げる。シリアナと目が合って、レノーは小さく頭を下げた。
シラールの民であるシリアナは、ダナーンにおいては夜会や貴婦人の開く茶会といった社交の場とはほど遠く、屋敷の中で本を読んだり、王都から少し離れた草原で馬を走らせたりして過ごしていた。そのため、屋敷の中では部屋用のドレスや侍女たちの着るような簡易な服を着て過ごし、馬に乗る時は男装を身にまとい、動きやすい服しか着たことがなかった。
盛装は今日が初めてだ。
花嫁衣装の裾は長い。シリアナは、床とすれ、内側に巻き込んでしまったスカートの裾を、途中何度か踏んでしまいつまづいた。その度に、マリウスの腕をつかんだ左手に力をいれた。するとマリウスの腕全体に緊張が走る。彼の腕がきゅっとしまって硬くなる。彼のたくましい腕が、シリアナの体重を支えてくれた。そのおかげで転ばすにすんだ。
「衣装の裾を軽く蹴るように歩くと楽ですよ」
玄関広間の二階の回廊から一階へ続く階段の前まできて、そっとマリウスに耳打ちされる。
「もっと早くに教えて下さればよかったのに」
シリアナはマリウスのことを軽くにらむ。
「何度か転びそうになったでしょう? その度に貴女に頼られるのが楽しかったものですから。申し訳ありません」
マリウスが笑う。
「意地悪なんですね」
シリアナは、ふい、と顔を反らす。
シリアナによく仕えて欲しいと、ロラに見せたシリアナに対する心遣いや、シリアナのことをからかうのを楽しむ彼の軽口。
マリウスの見せる誠実な態度や、彼とのささいなやり取りに、マリウスは真実シリアナのことを愛しているのだと感じられた。
だが、マリウスが中継ぎの当主であるというオードラン公爵家の内情を考えた時、マリウスの伴侶が男児を生んでは、いずれ家督相続で争いが起きる。けれども、将来シリアナが子を成したとしても、後ろ盾のないシリアナの子では、マリウスの兄クロヴィスと皇帝の愛娘であるコレットの間に生まれたエリクの爵位継承権を脅かす存在にはなり得ない。
シリアナに対しては熱心に愛をささやき、周囲へはシリアナに対しての気遣いを見せているが、家のために丁度よい結婚相手、それがシリアナに対するマリウスの評価なのではないか。そんな疑念がシリアナの心の中にあった。
「だが階段は危ない。貴女を護る自信がないわけではないですが、いつも私が貴女の側にいるとは限りません。もしもの時のために、片手は手すりにそえて降りるようにして下さい」
「ええ」
左側からマリウスに礼護され、伸ばした右手を軽く手すりに添える。足を前に軽く蹴り出し、花嫁衣装の裾を踏まないように注意しながら、ゆっくりと階段を降りる。
階段を降りきり、扉の前までくるとレノーが深深と頭を下げた。
「おめでとうございます旦那様。差し出がましいとは存じますが、シリアナお嬢様におかれましては、旦那様のことを末永くよろしくお願い申し上げます」
「もちろんです」
シリアナは意識して頤を上げ、レノーに応える言葉を続けた。
「ですが今、私が異国の地で何不自由なく暮らせるのもマリウス様のお陰です。わたくしの方こそ、オードラン公爵家のみなとマリウス様の心遣いには感謝しています」
謝意と敬意は示しても、主が使用人に頭を下げてはいけない。
屋敷の秩序を守るため、使用人と主、その序列は大切なものだから。
シリアナはオードラン公爵家にきて生まれて初めて、侍女たちからあれやこれやと身の回りの世話を焼かれた。
シリン高原の自然は厳しい。雪が雨に変わりはじめると、新芽が芽吹き、地面は地平線の先まで、濃淡を持った緑一色で染められる。草を食べる家畜は肥えはじめるが、夏になれば乾燥し、せっかく芽吹いた草も枯れてしまう。夏が訪れてから、シリン高原の北に位置する山脈から冷たい風の吹き下ろしてくるまでの期間は短い。北風の中に湿った匂いを感じるようになると、すぐに雪が降り始める。冬はひどく冷え込み、毎年、力のない老人や風邪をこじらせた子供が死んでいった。家畜は家族に属する財産ではあったが、困ったことがあれば人人は、気軽に持っているものを分け合う。少ない食料や物資を誰かが独占しては、厳しいシリン高原の冬は乗り切れない。部族の中で人人の立場は対等だった。バズド族の中で暮らしていたころは、族長の孫娘だからと言って特別扱いされることはなかった。
それにダナーンの異母兄の下に身を寄せてからも、屋敷に仕える人人はシリアナを蛮族の娘と見下げて、最低限の世話しかしなかった。
しかし、オードラン公爵家の人人は皆優しかった。異国から嫁いできたシリアナでは、帝国の礼儀やしきたりに慣れないだろうと、シリアナが礼儀に叶わぬ行いをしてもあざけることなく受け入れ、その度に正しい振る舞いを教えてくれた。
シリアナは人から好意を持って仕えられることに慣れていなかった。オードラン公爵家へきてから数日、シリアナは使用人達の優しさに恐縮しきりだった。それではいけないとロラに注意された。
以降シリアナは、使用人達に感謝の意は伝えても、彼らの前では常にぴんと背筋を伸ばして胸を張り、卑屈に見えないよう心がけている。
「旦那様、馬車を表に回しています」
「ああ」
レノーの言葉に、マリウスが頷く。
「それではいってらっしゃいませ」
言ってレノーが扉を開いた。
玄関のすぐ前に馬車があった。オードラン公爵家の紋章である双頭の鷲の意匠を施した黒塗りの箱馬車は、シリアナが王城からこの屋敷に連れられてきた時に乗せられたものだった。
馬車には二頭の馬がつながれていた。二頭は同じ色の明るい茶褐色の体毛を持っていた。二頭とも、頭から膝のあたりまで均一な色をした茶褐色の毛で覆われ、四肢の先に向け徐徐に黒みが強くなっていた。よく手入れされた被毛に汚れはなく、朝の清清しい陽光を反射して美しく輝いていた。馬は行儀よく並んで立ち、御者台に座る御者の指示を大人しく待っていた。
マリウスはシリアナの腕を解き、馬車の前まで行き扉を開ける。
「シリアナ」
マリウスは昇降板の横に立って、シリアナに手を差し出した。
シリアナはマリウスの手に自らの手を重ね、馬車に乗りこんだ。
ドレスの裾と裳裾を皺にしないように気をつけながら、馬車の後ろに座った。
その後からマリウスが馬車に乗りこみ、シリアナと向かい合わせの席に座り扉を閉めた。
「出してくれ」
マリウスが背後にあった小窓を少し開け、御者に声をかけた。
御者が、はいと言う。
御者は馬に向かってかけ声をかけ、持っていた鞭で馬の尻をたたいた。
馬車がゴトリと音を立てて動き出す。
マリウスは窓を閉めて座席に座り直した。
「今日のことは聞いていますか?」
マリウスがシリアナに問いかけてきた。
「はい。大体のことはロラから聞きました。帝都にある大神殿へ行きまずは改宗をし、マリウス様と結婚の誓いを立てると。入信式と結婚式の手順についてもロラから教わりました」
「それはロラから聞きました。彼女は貴女によくしてくれましたか?」
「はい」
シリアナは応える。
マリウスはにっこりと笑って頷き、すぐに真面目な顔になった。
「だが、貴女には本当に申し訳ない」
「なぜですか?」
「貴女は、ダナーン聖公国においても、ダナティアは信仰しなかったのでしょう? それを無理矢理改宗させてしまって」
「いいえ」
シリアナは首を振る。
「半分とはいえ、わたしにはバレ王家の血が流れています。確かに、ダナティアへの信仰を誓えば、王家の一員としては認められなくとも、ダナーン族の一人としては認められ、故国での生活も少しは楽になったかもしれません。実際異母兄にも改宗を勧められました。でも、そのことについては、特別強い思いがあったわけではないんです。あの頃のわたしは、神も何も信じていませんでしたから。バズド族が滅んだ時に逃げ延びず、みなとともにわたしも死んでしまえばよかったと、ただ、流れ去る時に身を任せ、いつこの命がつきるのだろうかと、それだけを思っていました。
わたしはずっと、一人生き残ったことは部族への裏切りだと信じていました。でも改宗してしまえば、シリン高原で過ごしたすべての時を捨て去ってしまうような気がして、一人生き残ってしまったことにどんなに後悔の念があるとしても、バズド族の一員として過ごした日日はわたしにとってはとても大切なもので、それだけはできませんでした。改宗するくらいであれば、自害してもよいと思っていましたから」
「ではなぜ、今日のことに頷いてくれたのですか? 改宗は、貴女にとっては堪え難いことでしょう?」
「ダナーンにいた頃のわたしであれば、そうだったと思います」
「今は違う?」
「ええ。バズド族もダナーンも滅びました。この国で生きて行くのが、今のわたしの運命なのだと納得しています」
「運命、ですか? 故郷が滅び、純血主義の強いダナーンで人人から様様な目を向けられて過ごしてきた貴女の気持ちは私にはわかりません。でもいつか、自分の人生はこの国にあるのだと、貴女が思えるようになってくれればと私は願っています」
マリウスが真っ直ぐにシリアナのことを見つめてくる。その強い視線に居心地の悪さを感じ、シリアナは顔をふせ、両手を膝の上で強く握った。左手の薬指には、マリウスが愛を誓った石榴石の指輪があった。
オードラン家の屋敷から神殿まで距離はなかった。帝都の大通りを通り、馬車はほどなくして神殿についた。
神殿の入り口にの左右には、人の背丈より少し低いくらいの高さの台座の上に、鷲の頭にライオンの体、そして大きな翼をもった生き物の彫刻が、向かい合わせで置かれていた。そこから、両脇に砂利のしかれた石畳の参道が長く続いている。砂利の上を薄汚れた粗末な衣服をまとった多くの人が歩いていた。
「この場所に、二頭のグリフィンが引く二輪戦車に乗った唯一神バティストが降り立ち、皇室の始祖であるオディロンに国をつくるようにと告げた言われています。ここは信仰の中心です。そのため帝国中から人が参詣にくるんです」
シリアナが馬車の窓から外を見ていると、マリウスが言った。シリアナはマリウスに視線をうつした。
「参道の東横に、彼らのための祈祷所と帝都に住む人人のために神官たちが日日の祈りを捧げている神殿がありますが、今日は前庭にある神殿で、あなたの入信式と結婚式を行うことになっています」
「式の進め方についても、ロラたちと練習しました」
ロラを神官に侍女の一人をマリウスに見立てて、礼拝堂への入場から退場まで、入信式と結婚式の式次第にそった立ち居振る舞いを何度も練習した。その時に、帝国の信仰や教義についても大まかなことを教えられた。
「大丈夫ですよ、緊張しなくても。今日の式には列席者はいません。神官の指示に従って動けば、多少の失敗をとがめる人はいません」
「そうですね」
シリアナはマリウスの言葉に、少しだけ笑って応えた。
参道の奥には石造りの大きな門があった。その両脇に長い槍を持つ兵が立っていた。
門は弧状になっていた。門は木製の扉によって閉ざされていたが、馬車が二台すれ違ってもいいだけの十分な広さがあった。
御者がオードラン家の馬車だと告げると兵が動き、重そうに両開きの木戸を開ける。兵の一人が通るようにと言う。御者はそれに応え、馬車を動かす。馬車は門をくぐり抜けた。
門の入り口から石畳の道が真っ直ぐに続いていた。参道の左右には背の高い樫の木が植えられていた。樫の木は、小枝の端まで初夏の瑞瑞しい色をした緑の葉で覆われていて、石畳の上に涼やかに影を落としていた。
馬車は全体に木漏れ日を映して参道を進み、前庭の奥にある神殿の前で止まった。
御者が扉を開ける。マリウスが身軽な動きで先に降りる。シリアナはマリウスに助けられて、昇降板を使い地面に足を下ろした。
全て白い大理石でできた神殿は、伝統的な古代ヘルク調の建物だった。
長方形をした神殿の周囲には、上に向かって次第に細くなっていく円柱が等間隔に並び、平べったい三角柱を横に倒した形の屋根を支えていた。柱の奥には天井までの高さがある壁が造られていて、中を覗くことはできない。柱の側面には縦に伸びる細い溝が何本も彫られていた。柱の上と下には繊細な模様の彫刻が施されていた。柱の上から屋根の間の三角形になった部分には、二頭のグリフィンの引く二輪戦車に乗った唯一神バティストが、その前に跪くオディロンに宣託をしている場面を描いた浮き彫りがあった。
神殿の正面から地面へ向かって造られた階段の上に、一人の神官が立っていた。背の低い、人の良さそうな顔をした神官が、小さく会釈した。マリウスがそれに返す。マリウスの腕に左手を預けたまま、シリアナはそれを真似して頭を下げた。
「お待ちしておりましたよ、オードラン公爵」
「まさか、大神官自ら今日の式を執り行ってくださるとは思っていませんでした」
マリウスが言う。
大神官は帝国の信仰の頂点にいる。その大神官がなぜ今ここにいるのか。シリアナは慌ててマリウスの顔を見たが、マリウスは笑みを浮かべたまま大神官の方を見ていた。
「今日のことについてはコレットから手紙を受け取りました。可愛い姪に頼まれては否とは言えません。それに、今日の式を大神官が執り行ったとみなが知れば、そちらの愛らしい花嫁にも箔がつくことでしょう。
オードラン公爵、今日、貴方の花嫁となる幸せなお嬢さんを私に紹介してはいただけませんか」
大神官が、シリアナのことを見てにこりと笑う。シリアナは思わず身を退いた。
「大神官様、隣にいるのが、今日これから私の妻となるバズド=ナキ・バジス=アミ・ダナ=アミ・スレ・シーリーン・スレ・アナです。シリアナ、そちらにいらっしゃるのが、皇帝陛下の弟君でもあらせられる大神官のアダルブレヒト様だ」
「よろしくお願い申し上げます」
シリアナはマリウスの腕から手を外すと、両手でスカートを少しだけ持ち上げ、その場で礼をした。
「ご丁寧にありがとうございます。いつまでも立ち話と言うわけにはいけません。早く入信式と結婚式を始めましょう。オードラン公爵にシーリーン・スレ・アナ嬢、さあ、こちらへ」
大神官は体を横にすると、左手を水平に上げて体を開き、柱の奥の壁にある、開いたままになっていた木製の扉を示した。
シラールの民は自らの名を告げる時、部族の名の後に、氏を母方、父方の順で名乗り、最後に親から与えらえた名を付け加える。母親に夫が複数いる場合は、母親の夫の氏をすべて名乗るが、母親が婚姻していなければ氏は名乗れない。氏のない者には、相続権はなかった。財産は父親から、氏は母親から継ぐものだった。
ダナーンや帝国では、名は親から与えられた名と家名からなる。シラールの民の名は、帝国のものとは全く違う。
シリアナは、大神官が正確に自分の名だけを言ったのに驚いて、柔和な大神官の顔を見つめたまま足を踏み出すのを忘れる。
「――シリアナ?」
先に歩き出したマリウスが、振り返って言う。シリアナは軽く首を振り、マリウスの右腕に手をそえた。
それを見て、大神官が扉の方へ歩き出す。大神官の後に続いて歩くマリウスに導かれるまま、シリアナは階段を上った。
入信式と結婚式はあっけないほど簡単に終わった。
有に千人は入れそうな広い神殿の中には、シリアナとマリウスの他に、大神官とそれを補佐する二人の侍者以外、誰もいなかった。
壁の高い場所には、腕を左右に開いたほどの高さのはめ殺しの窓が横一列に並んでいた。そこから差し込む日の光が、やさしく神殿内を照らしていた。
神殿の一番奥は、周囲から一段高くなっていた。長方形の段の出入り口側の辺の真ん中に、白い大理石で造られた祭壇があった。祭壇の左右に侍者が控え、祭壇の前には大神官は立っている。大神官の後ろには、唯一神バティストに特別に恩恵を賜った初代皇帝オディロンが、一度天寿を全うした後よみがえり、黄金色に輝く雲をかき分け、肉体を持ったまま天に昇っていく姿が描かれた、天井までの高さがある屏が立てられていた。
シリアナの向かって右に立っている侍者の横には、背もたれのない、座面に真紅の天鵞絨が張られた椅子があった。その上に、錫の鐘が伏せて置かれていた。侍者は、鐘の上から伸びた細い持ち手を、三本の指ではさんで持ち上げ、鐘を二三度軽く振ふった。澄んだ音がした。鐘が鳴り止むと、侍者は鐘を椅子に戻した。
大神官はゆったりとした動作で腕を左右に大きく開き、手を胸の前で合わせると、厳かにシリアナの入信式を始めることを告げた。
入信式の間、マリウスはシリアナの後ろにいた。大神官が、バティストを唯一人の神として信じるかとシリアナに訊ねる。シリアナは諾と返事をする。入信式はそれだけで終わった。
結婚式に移ると、シリアナとマリウスの二人は並んで祭壇の前に立った。結婚式は、大神官がシリアナとマリウスの二人に結婚の意思を確認し、二人がそれに同意した後、結婚宣誓書にそれぞれが名を記入して終わる簡単なものだった。
乗ってきた馬車でオードラン家の屋敷に戻ると、ロラによって純白の花嫁衣装から旅用の、スカート部分が大きく広がらない、靴が見えるほどに裾の短い動きやすい服に着替えさせられた。既に準備はできているからと、玄関前にとまった馬車のところまで、オードラン公爵家にきてからロラと一緒にシリアナの世話をしていた侍女のリーズとともに連れて行かれる。
玄関前で待っていた馬車は、朝神殿に行くときに乗ったものに比べると幾分質素なものだった。オードラン公爵家の紋章は入っているが、馬車の前輪の上に小さく入っているだけで、誰の馬車なのか一目では分かりにくい。馬車には、前に二人、後ろに三人、騎馬の護衛がついていた。
ロラに急かされ馬車に乗る。
馬車の中は、三人掛けの座席が向かい合うようになっていて、シリアナとリーズの二人が乗るには十分に広く、座席と座席の間にある扉の上に小さな窓がついていた。
リーズがシリアナの後から乗り込んできて、御者台を背にした席に座る。外から扉が閉められるなり、リーズは扉の上の窓を開けて、外を見るようにシリアナを促す。
シリアナは窓際に寄り、少し腰を浮かせて開いた窓から外を覗いた。
窓の下にマリウスがいた。
「護衛の者はつけましたが、街道に出れば何があるかわからない。一番目立たない馬車を選びました。道中の無事をバティストに祈っています」
「ありがとうございます」
シリアナは小さく礼を言う。
「義姉上にもご無沙汰しているし、エリクの様子も気になるので、本当は私も一緒に行きたいのですが、先の戦の片付けで、まだまだ落ち着かない。もうしばらくしたら、必ず領地へ向かいます」
「私のことなどお気になさらずに。マリウス様のお邪魔になることは望んでおりません」
「つれないことを言わないで下さい。せっかく夫婦になれたんだ。私はいつも貴女のことを思っています。手紙を書きます。きっと返事を下さい」
「はい」
シリアナは小さく頷く。
「約束だ。手を」
マリウスに言われ、馬車の小さな窓から指先だけを出す。その手にマリウスが口づけた。
「貴女は私の妻だ。愛しています」
シリアナの手の甲から顔を離してマリウスが言う。
「わたしもです」
シリアナはうつむいて応える。
「マリウス様、新妻とお別れになるのがお辛いのは十分に存じておりますが、奥様を早く出発させてさしあげないと、日が暮れるまでに宿にお着きになれませんよ」
シリアナを見送りに出ていたロラが口を挟む。マリウスは名残惜しそうに、シリアナの手を放した。
「そうだな。日が落ちて街道を行くのは危ない。お前たち、決して無理はしないように」
マリウスが、護衛と御者に向かって言った。
「承知しております。公爵夫人の身は命に代えてもお守りいたします」
右前方の騎馬の男が振り返って、マリウスに言った。
「信じている。――それではシリアナ気をつけて。行け」
マリウスの言葉に、御者が馬に鞭を打った。馬車の車輪が動き出すのと同時に、前後の騎馬も歩き出す。
「シリアナ、必ず貴女に会いに行く」
動き出した馬車に向かって、マリウスが言った。シリアナは小さく頷いて返事をし、窓から離れ、座席に腰を落ち着けた。リーズが窓を閉める。
馬車の車輪が回る音と前後を行く騎馬の蹄鉄の音だけが、馬車の中に響いている。
マリウスは本当は誰に会いたいのだろうか。
シリアナは、石榴石の指輪を触って考えた。