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第三章

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 街道を行くために用意された馬車は華美な装飾こそされていなかったが、乗り手のことを考えなるべく振動の伝わらない造りとなっており、オードラン公爵領へと向かう旅は、粗末な幌馬車で帝国へ連れてこられた時とは違い快適なものだった。
 しかし窓にかかった厚手の緞帳(カーテン)を開けねば景色はみえず、また開けたところで育ち盛りの青青と葉を茂らせた麦畑が続くばかりで、代わり映えのしない景色は道行を退屈にするだけだった。シリアナは座席の横に置かれた座布団(クッション)によりかかり、ため息をついた。
「奥様、お疲れですか?」
 向かいに座るシリアナ付きの侍女、リーズが言った。
「いいえ大丈夫。ただいつ着くのかと思って」
 シリアナは首を振り、座布団(クッション)から身を引き剥がして姿勢を正した。
「昼食前には着くと思いますわ。御者に言って、もう少し急がせますか?」
 リーズがにこりと笑って言った。
 三十を過ぎたばかりという彼女は、面倒見が良く気の利く女性だった。帝都の屋敷でロラと共にシリアナ世話をしている間は、年長者であるロラを立て出しゃばらずに、ロラのいなくなった今は、ダルバードの慣習に慣れないシリアナのことをそっと支えるように、さりげなく世話を焼いてくれる。また身分の高い女性に仕えることにも慣れていて、領地の屋敷についたらまず、先代のオードラン公爵婦人にどのような礼を取るべきか、シリアナに丁寧に教えてくれた。頼りになる侍女だ。
 オードラン公爵家に仕える人人は、シリアナを蛮族の娘と蔑むことはない。彼らはマリウスの妻、すなわちオードラン公爵婦人としてシリアナに敬意と穏やかな愛情を持って接してくれる。
 そんな彼らの態度に、マリウスがいかに使用人達から慕われているのかが分かる。
 戦勝品としてマリウスに下賜され、いずれ男児を成しても、身分も低く後ろ盾のない母から生まれた子はマリウスの甥エリクのオードラン公爵家の相続の脅威にならないからと、条件だけでオードラン公爵の妻に選ばれた女。そんな女に向けられる感情としては過分のものではないかと、彼らからの厚意を向けられる度に気分が重くなる。
 ダナーンでは人から何と言われようと、シラールの民の誇りを胸に毅然とそれを向け流していればよかった。人から向けられる感情に悩むなんてらしくないと分かっている。けれども蛮族の娘と蔑みの視線のみを向けられてきたダナーンでの生活に慣れきってしまっていて、久しぶりに向けられる暖かな感情にどう対応したら良いのか分からないのだ。
「ありがとう。でもあまり早くついてもご迷惑ではないかしら」
「そんなことはございませんわ。コレット様はお二人の結婚式にいらっしゃれず、奥様とお会いできずにとても残念がっていらっしゃると、マリウス様がおっしゃっておいででしたから」
「でもあちらのご都合もあるでしょう。このまま行きましょう」
 シリアナはリーズに向かって笑いかけた。膝の上におかれた左手には、オードラン公爵家の女主人に代代伝わる石榴石(ガーネット)の指輪が輝いている。シリアナは石榴石(ガーネット)の指輪ごと、左手を右手で覆った。
 馬車が屋敷の門を通り過ぎるとリーズが、厚手の緞帳(カーテン)を開けた。薄暗かった(コーチ)内に明るい初夏の日差しが差し込み、シリアナは眩しさに目を細めた。
「館まではもう少し距離がありますが、この屋敷のお庭は素晴らしいんです。ぜひご覧になって下さい」
リーズが笑って言う。(コーチ)内の明るさに目が慣れてきたところで、シリアナは窓の外に視線をやった。
 背の低い青草の茂った大地がなだらかに起伏しながらどこまでも続いている。その間に見え隠れしながら、馬車の進む道の左手にそうように、小川がせせらぎの音を微かに響かせ、ちょうど中天にさしかかった太陽から降りそそぐ陽射しをきらきらと反射して流れていた。小川の左右には所所に青青と葉を茂らせた広葉樹が植えられ、小川の岸から水面に向かって涼しげな木陰をつくっている。
 よく手入れされてはいたが、自然の趣きを大切にした野趣のあふれる造りの庭だった。
 途中、小川にかかる橋がいくつか見えた。ゆるく湾曲した細長い石板を向こう岸に渡しただけの橋や、濃いこげ茶色の木版を横に並べた桁橋に、切り出したままの細長い木の枝の欄干を組み合わせた橋など、橋はそれぞれに工夫がこらされていた。
 馬車に揺られてしばらく行くと、正面に大きく両翼を広げた古めかしい造りの巨大な館が見えてきた。石造りの館は全体がくすんだ灰色をしており、背の低い青草が茂った明るい緑色した大地を背景に一際存在感を放っていた。それはまるで、ここを訪れた者にこの屋敷の持ち主——オードラン公爵家——の威容を示しているかのようだった。
 屋敷の馬車寄せにつき馬車が止まる。御者台から降りた御者が重厚な作りのオーク材の扉を叩きオードラン公爵婦人の訪れを告げると、扉が内側からゆっくりと開けられた。
 シリアナは御者に手伝われながら馬車降りた。扉から奥の吹き抜けになった二階の回廊(ギャラリー)へ続く大階段まで左右に何列も人が並んでいる。居並ぶみながシリアナのことを見ている。シリアナはつとめてゆっくりとした足取りで扉をくぐり、屋敷の中に入った。
 扉を開けてくれた男性はシリアナの横に立ち、当主であるマリウスの留守中領地の全てを任されている家令のフランクだと名乗り、ここには屋敷に勤めるの全員が集まっていると述べた。
「出迎えご苦労です」
 女主人に相応しく堂堂とふるまおう。シリアナはぴんと背筋を伸ばし、集まった人人の上にゆっくりと視線をめぐらせながら言った。居並ぶ使用人たちの目には一様に新しい女主人に対する興味があった。それと同時に彼らの瞳の奥に、シリアナへと向けられた暖かさがあるのに気づく。
ここでもきっと帝都の屋敷と同様に、使用人たちから敬意と愛情を持って接せられるのだろうとの予感に、少しだけ気分が重くなる。蛮族の娘である自分にそこまでの価値があるのだろうか。シリアナは、体の前で合わせた手に少しだけ力を入れた。その時、二階の回廊(ギャラリー)の奥から足音がした。シリアナは音のする方へ顔を向ける。
 小さく小走りな足音とゆっくりと静かに歩む足音。
 屋敷の東翼から大小二つの人影が現れた。
 小さい方はまだ十にもならないような年頃の少年で、転がりでるように階段を降りてシリアナの前へたどり着く。
 大きな方は気品と春の日差しのような優しさ合わせもったを美しい貴婦人で、マリウスの書斎に掲げられた絵画に描かれていたその人だった。長いドレスの裾を引き衣擦れの音をさせながらゆっくりと階段を降りきり、少年の後ろに立った。緩く波立つ豊かな黄金色の髪の毛が、彼女の繊細な顔立ちと細くすっきりとした腰までを覆っている。彼女は深く澄んだ紫水晶(アメジスト)色の瞳に、深い愛情を浮かべて少年のことを見ていた。
「エリク、あまり急いでは危ないわ」
 貴婦人の薄く色づいた唇が開き、穏やかに言葉が紡がれる。高くもなく低くもないその声は、聴くものの耳に心地よく響いた。
「ですが早く義母(はは)上にお会いしたくて」
 少年は貴婦人に振り返ってはにかんだ。
「エリクです。これからどうぞよろしくお願いいたします、義母(はは)上」
 次いでシリアナのことを見上げて、少年が言った。少年はそのままひざまずき、シリアナの手を取り口づけを落とした。
 マリウスとシリアナの結婚に当たって、皇帝の娘コレットとマリウスの兄の子エリクをマリウスの養子にするのが条件だとは聞いていた。だが、こんなに簡単にシリアナのことまで受け入れられていいのだろうか。シリアナは戸惑って、少年の生母であるはずの貴婦人のことを見た。
「マリウス様の兄、クロヴィス様の妻のコレットです」
 コレットと名乗った女性は、ドレスのスカートの脇を両手でつまみ腰を下げて礼をした。
 シリアナは、慌てて礼を返して挨拶する。
「わたくしのところから先に名乗らなければいけないものを失礼いたしました。この度マリウス様の妻となりましたシリアナです。どうぞよろしくお願い申し上げます」
 コレットがふふふ、と小さく笑った。
「あまり固くならないでシリアナさん。貴女はマリウス様の妻、わたくしたちは家族になったのですから。
 結婚式には行けず申し訳ないことをしてしまいました。ですが妹ができるのだと、貴女とお会いするのをとても楽しみにしていました。わたくしのことは実の姉とも思っていただければ嬉しく思います。こちらこそよろしくお願いいたしますね、シリアナさん」
「そうです義母(はは)上、義母(はは)上がいらっしゃるのをずっと楽しみにお待ちしていたんですよ。屋敷の者みなで義母(はは)上の部屋も整えたんです。急いで整えたからお気に召さないところもあるかもしれませんが……、とにかく遠くからいらして義母(はは)上もお疲れでしょう。昼食はまだですよね? でしたら昼食は後でお部屋にお持ちします。まずは部屋に参られ、ゆっくりと旅の疲れをお取り下さい。わたしが部屋までご案内いたします」
 エリクに手を取られる。シリアナはどうしたらいいか困って、コレットのことを見た。
「エリクのいいようにして下さいシリアナさん。この子はずっと、貴女とお会いできるのを心待ちにしていたんですから」
「承知いたしました」
 シリアナは頷き、エリクに導かれるままに歩き出した。


 華やかな夜会の会場の片隅で、マリウスは大きく息を吐いた。
 狩猟や古今の哲学・思想・文学から医学、数学、美術、建築、音楽まで、多岐にわたる分野に対して見識と深い造詣を持ち、現代の大学者と名高いバルテレミーの教室(アカデミー)など、目的を持って人人が集まる場は好きだった。だが、いかに会話を主導(リード)し、機智に富んだ洒脱な語りで相手を感服させるか、その優越を競い合う。会話の技能は貴族の社交では特に大事とされることではあったが、その享楽的な楽しみに浸りきることがマリウスにはいつも出来なかった。
 幼いからマリウスが常に求めていたのは、この世の真理、生の本質であったような気がする。屋敷の図書室の奥深くには、不滅の美、不滅の善、この世の全きものを求めた古代ヘルクの偉大な哲学者たちの奥深い思索の道筋の書かれた本が、数多くしまわれていた。それらの本を、薄暗い図書室に並び立つ背の高い本棚の中から見つけて取り出し、胸に抱えて部屋に戻ると、胸を高鳴らせ、頁をめくる指に期待を込めて、マリウスは一頁一頁読み進めていった。
 だが、帝国でも特別なオードラン公爵家の次男という地位は、書物に書かれた知識の中にマリウスを埋没させることを許さなかった。帝国の貴族には、自らの領土を守る義務とそれを安堵する皇帝の権威と威信を守る責務がある。オードラン公爵家の始祖グラシアンは、初代皇帝エミリアンの弟であった。彼は兄とその子孫の治世を支えることを誓い自ら進んで臣に下り、オードラン公爵家を開いた。帝国においてオードラン公爵家の役割は重要だ。オードラン公爵家は常に他の帝国貴族の規範となることを求められる。公爵位を継げないマリウスについても、それは同様であった。オードラン公爵家に生まれついた代代の男児と同様に、皇帝の権威と威信を守るため、武人になることをマリウスは求められた。マリウスにとって幸いだったのは、自らの望むところと関わらず、剣の腕と大軍を指揮する将としての資質に恵まれたことだろう。その証拠に、マリウスの衣装の前身頃には、多くの勲章が重たくぶら下がっている。
 過去と己の力のおよばぬ出来事への仮定は無意味と知りながら、時にふと夢想することがある。裕福な商家の五男か六男に生まれていたら、自らの心の求めるままに古代ヘルク哲学の研鑽に人生をかける学者になれたのだろうかと。
 そんな時、マリウスはいつも続けて考える。先祖から代代受け継がれてきた領地には肥沃な土地が広がり、多くの農作物の収穫が期待できる。農民たちは大切に育ててきた農作物を公爵家に納める。それはオードラン公爵家の財政を長きに渡り安定的に潤してきた。マリウスは金銭に困ることのないオードラン公爵家に生まれたからこそ、古代ヘルク哲学に親しむことができた。それなのにそれらに感謝することなく、自分の人生を哀れむだけは公正でないと。
 とは言え兄の存命中は、家を継がない次男の気楽さがあった。武人としての務めを果たすことで、オードラン公爵家の一員として求められていることに応えていると、自分にも周囲にも言い訳し、公爵家の社交に関わることは兄に任せきりにしてきた。だが、公爵家をついだ今となったはそうも言っていられない。公爵家の当主の義務として、積極的に社交の場に出るようにしていた。
 高い爵位と戦場で立ててきた数数の武勲のおかげで、自分から夜会に集まった人人の間を回る必要はないが、多くの人から声をかけられることは避けられない。今宵も多くの人人から声をかけられた。
 日が落ちきる前、西の空の一番低い一帯に濃い紅色を残して空全体が濃い群青色に染まり、東の空に一つ二つと星が輝きだしたころからはじまった夜会も、一刻――二時間――ほども過ぎると参加者同士の挨拶もあらかた終わり、会場の隅に集まって談笑する人、相手(パートナー)を見つけて会場の中央で楽しげに踊る人人、みな思い思いに華やかな夜のひとときを楽しみはじめていた。
 もしここにシリアナがいれば、心楽しい一時をすごせたのだろうかと思う。彼女を美しく着飾らせ、彼女の手を取りで踊ってみたい。初めて彼女と出逢った時、彼女は剣を構えてマリウスの命を狙った。小柄な体を活かした素早く敏捷性に富んだ動き。流れるような動きは、まるで舞でも踊っているかのようだった。彼女はきっと躍動的に踊ることだろう。早く彼女を帝都に呼び寄せたいという気持ちとともに、帝国の慣習になれない彼女では、夜会に参加しても気後れしか感じることはないだろうと思う。義姉に彼女を任せたことは後悔していないが、相手(パトナー)とともに楽しむ人人を見れば、彼女が側にいないことに寂しさを感じざるおえなかった。
 マリウスはもう一度大きく息を吐く。
 用は済んだことだし、帰ろうかと扉にむかって動きだそうとしたその時、
「オードラン公爵」
 呼ばれてマリウスは振り返った。
「バシュレ侯爵」
 バルテレミーの教室(アカデミー)に出入りする同好の士とも戦友とも頼りにしている人物に、マリウスは笑いかけた。
「お一人ですかな?」
「ええ」
 バシュレの問いに、マリウスはうなずいた。
「今まで独り身を通してきたマリウス殿がやっと結婚なされたが、夜会にもどこにも奥方と連れだっていらっしゃたところを見たことがないと、あちこちから不満の声を聞いていますぞ」
 マリウスは何も応えず、曖昧に笑った。
 横恋慕していた兄の妻コレットのため、あえて後ろ盾のない敗戦国の女を妻にし、コレットと兄の子エリクがオードラン公爵家継ぎやすくしたのだとか、シリアナはダナーンからの帰路、移動中は常に幌馬車に乗り、日が暮れてからは見張りをつけた天幕の中にいた、そのためシリアナの姿を知る人はこの帝国にほぼ皆無と言っていい、マリウスが自ら皇帝に願ってシリアナを妻にしたこともあり、シリアナの容姿について想像たくましくした人人は、長年恋煩いをしてきた春の女神とも呼ばれ楚楚とした上品な美しさをもつコレットとは正反対の、女性らしい肉感的な美しさをもつダナーンの女の色香に惑わされたのだとか、シリアナについて憶測めいた噂が社交会を飛び交っているのはマリウスの耳にも入ってきていた。
 今日も人人からは興味深げな視線とシリアナとの仲について露骨にさぐるような会話を向けられたが、マリウスは曖昧に笑ってごまかしていた。
 だがバシュレは軽く左右に首を振り、人好きのする顔に憂慮の色を浮かべてマリウスのことを見た。
「マリウス殿、兄上のクロヴィス殿が亡くなられた時、卿がクロヴィス殿の死に責任を感じご自身をひどく責めていたことは知っています。あの時エリク殿はまだ三つだった。オードラン公爵家の当主としての義務と責務を背負うにはエリク殿は幼すぎると、コレット様と合意の上で卿がオードラン公爵家を継いだことも。その時私が何と申したか覚えておいでですか?」
「ええ」
 マリウスはうなずく。
 オードラン公爵家を継ぎオードラン公爵として初めて訪れた夜会で、今日のように一人でいるところをバシュレから声をかけられ、クロヴィスの死は事故だ。誰にも責任はない。マリウスがオードラン公爵家を継ぐのは、状況から言って当然のことだと思う。だがクロヴィスとその妻コレット、そして遺児のエリクへの贖罪のために自分の人生をあきらめるようなことはするな、と言って励まされた。
「陛下が申されなくとも、卿はエリク殿を養子となされたでしょう。そうでなければ、もし卿と奥方の間に男児が生まれた場合、エリク殿のオードラン公爵家の爵位継承が難しくなり、卿がオードラン公爵家を継いだ際のコレット様との約束を果たせなくなる。卿は他者に対しての信義を大切にする、そういう人だ。だが、ご自身に対してはどうですか?」
「何をおっしゃりたいのですか?」
 マリウスは努めて平素の声で応え、シリアナから贈られてから常に身につけているオオカミの牙の首飾りを服の上から触った。
「卿はあの頃、サリニャック男爵家の令嬢とつきあいがあったはずです。オードラン公爵家と、貴族とは名ばかりの帝都の下町で庶民と同じ暮らしをしていたサリニャック男爵家の令嬢とでは、身分の差があり過ぎて噂になれば人人からつらく言われるのはサリニャック家の令嬢の方だった。卿は慎重につきあいをされていたから人人の口の端に上るようなことはありませんでしたが、私のように卿と親しくしている人物であればみな知っていました。卿はいずれは、あの令嬢と結婚することを考えていたのでしょう?」
過去(むかし)のことです」
 服の上からオオカミの牙の首飾りを触ったまま、マリウスは首を左右に振った。
 帝都の下町にある兵のよく出入りする酒場で、給仕の仕事をしていた、明るい笑顔が印象的な、燃えるような赤毛をした少女のことを思い出す。
 別れ話を切り出した時、彼女はマリウスの胸に取りすがって泣いたが、それからほどなくして店の常連の一人と結婚したのだと、人の噂に聞いた。
「オードラン公爵夫人の地位は、サリニャック男爵家の令嬢には荷が勝ち過ぎていた。卿があの令嬢と別れたのは、オードラン公爵家を継ぐものとしてであれば当然の選択だったと思います。ですが卿自身の幸せを考えた時、果たしてそれはどうだったのだろうかと、私はつい考えてしまうのです」
 年上の友人に何と応えてよいのか分からず、オオカミの牙の首飾りを触る手をとめマリウスは黙り込む。
 バシュレは小さくため息をついて言った。
「ここからは年嵩の人間のいらぬ心配ごとだと思ってお聞き下さい。クロヴィス殿もコレット様も、誰も卿の犠牲を望んでいない。もう結婚してしまったものは仕方ないが、お相手の女性のためにも、ご自身が幸せになることを考えてはいかがかと思うのです」
「私は常に、自身にとっても、公爵家にとっても最善と思える道を選択してきたつもりです」
 兄が死んで頻繁に社交界に出入りするようになってから、笑顔の仮面をはりつけることで相手に対してだけでなく自分に対しても本心を隠すことを覚えた。マリウスはバシュレに笑顔を向けて言った。
 バシュレは小さく肩を落とし、首を左右に振った。
 そのままマリウスはバシュレに別れを告げ、馬車に乗り込んだ。
 革張りの座席にゆっくりと身をしずめる。石畳の道を蹴って進む蹄鉄の音と、わずかに凹凸のある石畳の道の上を跳ね上がる車輪の不規則な振動が、馬車の中に響いていた。
 マリウスを乗せた馬車は、貴族の邸宅が建てられた地区を進んでいた。このあたりは昼間であっても人通りは多くないが、夜更けも近くなった今は不気味なほど静まりかえっている。
 だが、有力貴族の邸宅が集まるこの地区の治安は悪くはないのだ。酒屋を兼ねた宿屋や様々な商店が建てられ、帝都に住む人人以外にも外国の商人等多くの人人集まる大通り周辺の地域の方が治安は悪い。この辺りを行く時は護衛をつけずとも問題はない。屋敷までまだ時間がかかるはずだ。マリウスはゆっくりと目を閉じた。
 いつもであれば馬車の揺れに身をまかせ闇夜の静寂の中、心穏やかな一刻をすごせるはずなのに、今宵はバシュレからされた問いが頭から離れない。
 自身の幸せを望んだ時、シリアナとの結婚を誤りだとは思っていない。
 ダナーン聖公国の王宮の奥まった場所にある一室で、マリウスとシリアナは出逢った。征服者のマリウスと対峙した時、彼女は思慮深い漆黒の瞳を真っ直ぐにマリウスの方に向け、隙を見せることなく静かに立っていた。その後、彼女は死を覚悟し短剣一つでマリウスにむかってきた。
 運命を引き受けるだけの魂の強さ、そしてためらわずにマリウスの刀身の前に身をさらした死を恐れぬその態度。彼女の力強さに惹かれマリウスは恋に落ちた。
 だが彼女にとって、マリウスとの結婚とは何だったのだろう。敗戦国の女だから、帝国に決められたことに素直にしたがった? それとも帝国で生活していくための方便として、マリウスと生きていく覚悟を決めた?
 彼女から共に生きていくことは誓われたが、愛しているとは一度も言われたことがない。二人の出会いから今日までのことを考えれば彼女の気持ちは当然だと思うものの、寂しく思うのもまた確かだ。早く彼女の愛を得たい。いつ義姉の下から彼女を帝都に呼びよせるか。彼女を助けるため義姉も帝都に来てくれればよいのだが、義姉にそれを請う勇気はマリウスにはない。
 義姉はマリウスにとって、兄が生きていた頃、まだ幸せだった時代の象徴だ。
 兄が生きていた頃、マリウスは古代ヘルクの偉大な哲学者たちの記した本を読みふけり、本に記された彼らの思索の中で遊んでいればよかった。そしてその傍ら、オードラン公爵家に生まれた人間の責務として軍務に携わればよかった。
 オードラン公爵家の全ての責任は兄が負っていた。そして好きなことをするマリウスのことを兄と義姉が優しく見守っていてくれた。それは柔らかな春の日射しの中で遊んだ幼い日のように、心良い日日だった。
 それが変わったのは、兄が死んでからだ。
 オードラン公爵家を継ぎ、兄の背負っていた責務の全てがマリウス一人の肩にかかってきた。その日から、見守っていてくれたはずの義姉を守るべき立場となった。オードラン公爵家と言う大きな家名。兄が守ってきたものの大きさに恐れおののくこともあった。義姉がマリウスから離れたのは、自分が側にいてはマリウスの負担になるからと、マリウスのことを慮ってのことだったのだと知っている。だからエリクを連れ領地で暮らすと言い出したコレットをマリウスは止めなかった。結局兄の代わりに守ると言いながら、相も変わらず守られていたのはマリウスの方なのだ。
 オードラン公爵家を継ぐことはマリウスが望んだことではない。だがシリアナと人生を共にすることはマリウスが選んだことだ。シリアナが隣にいてくれれば、やっと自分自身の人生を歩みだすことができるのではないか、マリウスはそんな気がしていた。
 マリウスはゆっくりと息を吐く。シリアナを早く帝都に、自分の下に呼びよせよう。早く彼女に会いたい。そう思い、一度しっかりと見たいと、最近ではシリアナの分身のような気もしているシリアナから贈られたオオカミの牙の首飾りを衣服の下から取り出したその時だ、どさりと地面に何かが投げ出されるような大きな音がし、驚いたように馬が(いなな)き、前に投げ出されるような衝撃とともに馬車がとまる。マリウスはとっさに、壁からわずかに張り出した革張りの座席の背もたれの上部を握り、席から転がり落ちることを防いだ。常であればすぐに御者が謝罪の声をかけるはずだが何の声もかからない。マリウスは座席の上で体勢を立て直し、外の様子を探るため耳をそばだてた。
 何も聞こえない。否、御者台から誰かが飛び降りる音がした。常ではないことが起きている。そんな確信めいた予感がした。マリウスは耳に意識を集中させた。御者台から飛び降りた人物が落ち着いた足取りで、(コーチ)の方へとむかってくる。聞こえてくる足音は一つ。ならばマリウス一人で対処できる。マリウスは扉の横に身をよせた。
 馬車の扉が外側からゆっくりと開かれた。
 開け放たれた扉の外に、月明かりを背に黒黒とした人影が浮かんでいる。マリウスは、相手の鳩尾のあたりを目がけて拳を放った。だが敵もなかなかのもので、急所の前に構えた手のひらでマリウスの攻撃を軽軽と受け止める。相手に拳がとらわれるよりも先に、マリウスは手を引いた。相手は(コーチ)の中に片方足を踏み入れると、素早くマリウスの襟ぐりに向かって手をのばしてきた。狭い(コーチ)の中で逃げきることができずに、マリウスは相手に喉元をとらえられ、そのまま後ろの壁に押しつけられた。相手は力任せにマリウスの喉元を押さえつけてくる。顔が上向き、息苦しさを感じる。喉元にかかる相手の手を引きはがそうと、マリウスは相手の腕を両手でつかみ力を入れた。相手はマリウスの抵抗など気にした様子もなく、マリウスの喉元から手を放しその手を引いた。突然呼吸が自由になり、マリウスは思わず咳き込む。引かれた相手の手と一緒に、相手の腕をつかんだマリウスの両手も持って行かれる。マリウスが相手の腕から手をはなしたその瞬間、マリウスの胴ががら空きになる。マリウスが失敗を悟るよるも早く相手は(コーチ)の中に入り込み、マリウスの肩を片手でつかんで体重をかけてマリウスのことを座席に押し倒した。相手は素早く腰から短剣を抜き、マリウスの首筋に突きつけた。相手の鼻から下は黒く大きな三角形の布で覆われていていた。相手の委細な表情はわからないもののも、唯一晒された瞳はまざまざと男の感情を映していた。男は憎憎しげにマリウスのことを見つめていた。
 相手の目的が知りたい。マリウスは相手の顔をじっと見つめ返す。
 相手の激情をなんとか押さえ込もうとするようなゆっくりとではあるが荒荒しい吐息と、ともすれば相手のその吐息にかき消されそうになるマリウスの落ち着いた吐息。二つの吐息が(コーチ)の中に響いていた。
 どれくらい見つめ合っていただろうか。ぎりりと相手は歯がみし、マリウスの肩を強く握った。痛みにマリウスは顔をしかめる。男がマリウスの耳に顔を近づけた。
「俺は今はお前を殺せない。それは今、俺にはお前を殺すことが許されていないからだ。だがいつか俺が自由になったら、お前を殺して彼女を手に入れる」
 男がかすれた低い声で言った。
「彼女? シリアナのことか、なぜ彼女を?」
 マリウスは男に問うた。男が応える。
「彼女は元元俺のものになるはずだった」
 その言葉にマリウスは、初めて二人が結ばれた時シリアナが話してくれた内容を思い出し、男の正体に行き当たる。
「元元? お前はシリアナがシリン高原で暮らしていたころ親が決めたという婚約者か? だがバズド族は滅んだはずでは……」
「俺と彼女の部族は滅んだ。だが俺は生き延びた。彼女はこんな場所にいるべき女性(ひと)ではない。彼女はシリン(俺たち)の地で、あの地の風を、シリン(俺たち)の地に吹き渡るシーリーン女神の息吹を受けながら生きるべき女性(ひと)だ」
「だから私を殺して、彼女を取り戻すと言うのか。彼女の意思を無視して身勝手な」
 マリウスは吐き捨てるように言った。
「身勝手はどちらだ。お前は彼女を戦勝品としてあつかい無理矢理己の妻とした。彼女はやっかいな親族もいない都合のいい妻となったことだろう。お前は彼女を妻とするにあたって、彼女の気持ちは確かめたのか」
 男の言葉に、マリウスは彼女とのことを振り返る。マリウスは彼女が欲しかった。強引に妻にしたという自覚もある。だが関係を結ぶ前に、彼女の気持ちを確かめた。その後、マリウスの書斎を訪れた彼女は、自らの出自(ルーツ)を示すオオカミの牙の首飾りをマリウスに渡し、共に生きていくとマリウスに誓った。彼女の心は今、マリウスにあるのだと信じたい。だが、かつての婚約者だと言うこの男が目の前に現れたら、彼女はどうするのだろうか。バズド族が滅びたと同時に、目の前のこの男も死んだと思っていたからこそ、彼女はマリウスと共に生きていく覚悟を決められたのではないか。彼が生きていると知ったら、マリウスとこの男、シリアナはどちらを選ぶのか。自分が選ばれるという自信は、マリウスにはない。だがこの男に、そんなことを話す義理はない。マリウスが口をつぐんでいると、男はふっと皮肉げに笑った。
「帝国の人間に彼女の真価は永遠にわかるはずがない。彼女の真価が分からない男に彼女が守れるわけがない。だが今の俺は彼女を守る自由がない。俺が自由を得るまで彼女はお前に預けておく。だがこれは俺のものだ」
 男は言うと、マリウスの耳元から顔をはなし、首から下がったオオカミの牙の首飾りに視線を向けた。男はマリウスの肩から手をはなし、その手でオオカミの牙の首飾りを握り込み、そのまま首飾りを引っ張る。それにつられて、マリウスの首が頭と一緒に浮き上がる。男はもう片方の手で持った短剣で、ぴんと伸びた首飾りの紐を切った。とたんにマリウスの首を前へ強く引っ張る力がなくなる。反動でマリウスは頭を座席に打ちつけた。マリウスが起き上がるよりも早く、男は(コーチ)から飛び出した。マリウスは起き上がると、それを追いかけ(コーチ)を出た。マリウスは周囲を見回した。道の両脇には貴族の邸宅を囲う高い塀が続いているだけで、馬車の止まった道の後にも先にも男の姿は見えなかった。
 男は、マリウスが(コーチ)の中で体勢を整えていたわずかの間に、周囲の貴族の邸宅のいずれかに逃げ込んだのだろう。今頃広い貴族の邸宅の庭の物陰で息を潜めているに違いない。だがマリウスが助けを呼びに行けば、その間に男は逃げてしまうだろう。
 深追いをしても無駄だ。男の目的がマリウスの命とシリアナである以上、男はいずれまたマリウスの前に姿を現すはずだ。まずは屋敷に戻らねば。マリウスは御者はどうしたのかと辺りを見る。
 落ちついて立つ馬の横に、うつぶせに倒れた人影があった。倒れた人影の首の辺りを中心に地面が黒く染まっている。戦場で嗅ぎなれた鉄錆を含んだ生臭いにおい。御者は首筋を斬られ、事切れていた。
 男は、高い塀の上でマリウスの馬車が来るのをじっと待ち、走る馬車に飛び乗って御者の首を一筋で断ち切ったと言うわけか。
「なかなか見事な腕をしている」
 言ってマリウスはいつもの癖で服の上からオオカミの牙の首飾りを触ろうとしたが、そこにはオオカミの牙の首飾りはなかった。

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