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第一章
4
物音に、シリアナは目を覚した。
変わったことはないか、暗闇の中に目をこらす。
何もない。
それを確かめて、シリアナは再び眠ろうとした。だがしかし、天幕の中の静けさに疑問を持つ。クローディアの寝息が聞こえないのだ。
慌てて飛び起きると、シリアナはクローディアの寝台に駆け寄った。
毛布の上端がめくれている。
毛布の中に手を入れると、まだ暖かった。
外にいる見張りの兵が、クローディアが外に出ることを許すはずがない。
クローディアは逃げ出したのだ。
馬鹿なことを、とシリアナは内心でつぶやく。
天幕の外には、戦いで荒くれだった男たちが大勢いる。その中にみすみす飛び込んでいくとは、血に飢えたオオカミの群れの中に、か弱い羊を投げ込む様なものだ。
男たちに喰い殺されたいと言うのか。
いや、神殿で育った世間知らずの巫女は、男たちの欲望の恐さを知らないのだ。
天幕の中に武器ない。
ここへ連れて来られた時もっていた短剣は、シリアナの自害を恐れるマリウスによって、取り上げられた。
それに、いくらシリアナに剣の心得があるからと言って、複数の男たち相手に勝てる自信はなかった。
どうするか、シリアナは考える。
今ここで、シリアナが頼れるのは、マリウスしかいない。マリウスに助けを求めればいいのだと、答えは簡単に出る。
マリウスを呼ぶため、シリアナは天幕の外に出た。
シリアナが表に出ると、見張りの兵が慌てて前を塞いだ。
シリアナに、彼らに抵抗する気はない。だからと言って、クローディアが姿を消したことを素直に教える気はなかった。
クローディアの体調が優れないようだから、マリウスにそれを伝えて欲しいと言えば、二人いた見張りの兵の内一人が、彼を呼びに行くと駆けていった。
夜着のまま外にいては風をひくからと、残った兵によって天幕の中に戻される。
シリアナは灯下に火を灯すと、椅子に座ってマリウスを待った。
甲冑を着た兵士の歩く、がちゃがちゃと金属が触れ合うやかましい音が聞こえる。外に人の気配がした。
シリアナは天幕の入り口に、眼を遣った。
天幕の入り口に垂らされた布を片手で上げて、マリウスが入ってきた。彼は夜着に、真紅の室内着を羽織っていた。寝癖がついて、左の横髪がはねている。眠っていたところに知らせを受け、すぐに駆けつけたのに違いない。
シリアナは椅子から立ち上がり、マリウスの前まで行き、背の高い男のことを見上げて頼んだ。
「姫様がいらっしゃらなくなりました。探し行かせてはいただけませんか」
男はまだ眠気の取れない顔でシリアナのことを見下ろし、頭をかいた。
「貴女が行くのですか。どうして?」
「騒ぎにしたくありません。もし姫様が逃げだしたことが大勢に知られれば、帝国についた時、姫様は今回のことを問われるでしょう。そうすれば、まだ各地に残る有力貴族の下へ行き、彼らの協力を得て公国を再興しようとしたと、姫様に謀反の疑いで罰が下される恐れがあります」
「彼女はそのつもりだったのかも知れない」
「そうだとしても、私には姫様をお守りする義務があります。天幕からは逃げ出せても、姫様一人では、この陣営から抜け出すことは不可能です。ですから姫様をお探しし、連れ戻さないと」
「貴女とて同じことだ。雑兵たちは女に飢えている。彼らは、自らの欲望を抑えるだけの自制心を持たない。天幕の周りでは雑兵たちが野営している。この軍営を抜けるには、必ず雑兵の野営を通らなければならない。一人でこの天幕を出て、無事ですむと思っているのですか?」
「いいえ。ですから公爵様にお願いしたいのです。私にはどのような評判が立っても構いません。共に姫様を探しにいってはくださいませんか」
「今宵、私と何かあったと噂になってもいいというのですか?」
最初からそのつもりのくせに、とシリアナは思う。噂が立つのが早いか、それが現実するのが早いかだけのことだ。
「侯爵様がそれをおっしゃるのですか」
マリウスに捕らわれた時から覚悟はしていたが、未来のことを考え、思わず責める口調になる。
マリウスは何度か目を瞬かせてシリアナのことを見ると、肩を大きく下げてため息をついた。
「貴女が望むのであれば、私は貴女を助けましょう」
「お願いいたします」
シリアナは小さく頭を下げた。
外に出るため外套を身につけようとしたが、長持ちの上に置いておいたはずの外套がなかった。クローディアが着て行ったに違いない。天幕の隅でシリアナが困っていると、マリウスがシリアナの肩に自分の室内着をかけてきた。シリアナは振り返り礼を言う。行きましょう、と言うマリウスに促され天幕を出た。
夜は遅かった。
規則正しく整列した天幕の間にできた通りは、静まり返っていた。
幾つかの天幕にの前に配された見張りの兵士たちが少しでも身じろぎする度、甲冑の金属が触れ合うがちゃがちゃとした音が、辺りの静寂を破った。
マリウスは見張りの兵たちに、姫君は気鬱のようだ。少し一人にして差し上げれば落ちつくだろうから、侍女は私の天幕に連れていくと説明し、シリアナを連れて歩きだした。
自らの天幕が見えなくなったところで、シリアナは立ち止まった。マリウスが不審そうな目を向けてきたが、それは無視する。
目をつむり、耳を澄ます。
レザイルと別れたあの晩に、もう何も見たくない、何も感じたくないと、封印してしまった力、それをもう一度、呼び覚ます。
体の内側に気をめぐらせ、――足の裏に感じる大地の確かさ、頭上高くに果てしなく広がる空、世界の全てが自分の体を中心にして一つになる感覚、外界と自我の境目があいまいになる。シリアナの自我が消えうせ、体の内側に眠っていた力が、シリアナの体を飲み込み、世界も飲み込む――シリアナと世界が一つになる。
目を開けた時、世界は一変していた。
穏やかに吹く風が、シリアナの耳の横で唄いかける。
そっと手を伸ばせば、通り過ぎてゆく風の精が、シリアナの指に触って笑いかける。
大地には血潮が通い出し、足の裏にほのかな温かみを感じる。
大地の栄養を吸い上げ成長した草木は、命の歌を唄い、瞬間を歓んでいる。
天に瞬く星は悠久の時を見つめ、過去と未来をつなぐ。
風の巫女は、人と世界の仲介者だ。
だからこそ、シリン高原の厳しい自然の中で生きる人人は、風の巫女を欲する。
世界をあまねく吹きわたる風は、生きとし生けるものの全ての命の源であるシーリーン女神の息吹だ。
シリアナは、クローディアを知らないかと風の精に問う。
東から西に向かって駆け抜けていく風の精たちは、いっせいに後ろを指差した。
シリアナは彼等に礼を言う。
彼等はけらけらと笑って、去っていく。
「侍女殿、どうかしましたか」
マリウスに訊ねられる。
「あちらへ」
それを無視して、シリアナは応える。止まっているマリウスを追い越すと、風の精たちが教えてくれた方へ歩き出した。
天幕の整列した区域を抜ける。十尋ほどの空白地帯が広がり、その先には雑兵たちの野営地が広がる。
彼等はもう、眠りについているはずだ。それなのに、そう遠くないところに一箇所だけ、焚き火が赤赤と燃える場所があった。
――あそこにいるの?
風の精たちに問いかければ、彼等はしきりに頷く。
シリアナがそちらに向かおうとした時、女性の叫び声がした。
クローディアの声だ。
シリアナは慌てて、焚き火に向かって走りだす。
マリウスが後ろからついてくる。
シリアナが焚き火の場所までたどりつくと、ほっそりとした長身の男と、彼の前にひれ伏す五人の雑兵たちの姿が見えた。
男の腕の中に、青い絹の室内着を羽織った少女がいた。
男の胸にうずめた少女の顔は見えない。だが、男の腕からこぼれおちる、腰までのびた亜麻色の髪は、クローディアのものだ。
「殿下」
マリウスが男のことを呼んだ。
男がふり返る。と同時に、男の腕の中にいた少女が、ぴったりとつけていた男の胸から顔を少し離し、首を回してこちらを見た
クローディアだった。
「姫様っ!!」
シリアナはクローディアに駆け寄る。
「シリアナっ」
クローディアは男の腕を抜け出すと、シリアナの胸に飛び込んでくる。
「ご無事でしたか」
シリアナは、クローディアの華奢な体を抱きとめて訊く。
「ええ」
クローディアは頷いて、声を上げて泣いた。
マリウスの斜め手前で、二人の少女が固く抱きあっている。
ダナーン聖公国の王女は、侍女の胸に安心して身をまかせ、泣き声を上げていた。
マリウスは二人の横を通り過ぎ、自国の皇子の隣に立った。
「殿下、いかがなされましたか」
「大したことではない」
ジブリアンが首を振って応える。
その間に、マリウスは焚き火の方へさっと目を遣って、状況を確認する。
ジブリアンの前で、額を地面にこすりつけて平伏する男たち。
焚き火の周りには、すでに空にされた酒瓶と、まだ封の開けられていない帝国軍の象徴であるグリフィンの蝋印がおされた酒瓶が、何本も転がっていた。
彼らは兵糧に手をつけたのだ。
それを許すジブリアンではない。
だが、ダナティア攻めに参加せず、ずっと本陣に詰めていたジブリアンが、ダナーン聖公国の首都ダナティアを落とし、無事に故郷に帰れるのだと浮かれている兵たちに、厳しい罰を下しても逆効果だ。強制的に前線に送られ、命を賭して戦った彼らは、安全な場所で守られていた皇族が何を言うのだと、反発心しか抱かない。
兵たちへの罰は、マリウスが下すしかない。
マリウスはため息とともに少し肩を落とし、後は自分にまかせ、少女たちを天幕に連れていって欲しいとジブリアンに頼んだ。
物音に、シリアナは目を覚した。
変わったことはないか、暗闇の中に目をこらす。
何もない。
それを確かめて、シリアナは再び眠ろうとした。だがしかし、天幕の中の静けさに疑問を持つ。クローディアの寝息が聞こえないのだ。
慌てて飛び起きると、シリアナはクローディアの寝台に駆け寄った。
毛布の上端がめくれている。
毛布の中に手を入れると、まだ暖かった。
外にいる見張りの兵が、クローディアが外に出ることを許すはずがない。
クローディアは逃げ出したのだ。
馬鹿なことを、とシリアナは内心でつぶやく。
天幕の外には、戦いで荒くれだった男たちが大勢いる。その中にみすみす飛び込んでいくとは、血に飢えたオオカミの群れの中に、か弱い羊を投げ込む様なものだ。
男たちに喰い殺されたいと言うのか。
いや、神殿で育った世間知らずの巫女は、男たちの欲望の恐さを知らないのだ。
天幕の中に武器ない。
ここへ連れて来られた時もっていた短剣は、シリアナの自害を恐れるマリウスによって、取り上げられた。
それに、いくらシリアナに剣の心得があるからと言って、複数の男たち相手に勝てる自信はなかった。
どうするか、シリアナは考える。
今ここで、シリアナが頼れるのは、マリウスしかいない。マリウスに助けを求めればいいのだと、答えは簡単に出る。
マリウスを呼ぶため、シリアナは天幕の外に出た。
シリアナが表に出ると、見張りの兵が慌てて前を塞いだ。
シリアナに、彼らに抵抗する気はない。だからと言って、クローディアが姿を消したことを素直に教える気はなかった。
クローディアの体調が優れないようだから、マリウスにそれを伝えて欲しいと言えば、二人いた見張りの兵の内一人が、彼を呼びに行くと駆けていった。
夜着のまま外にいては風をひくからと、残った兵によって天幕の中に戻される。
シリアナは灯下に火を灯すと、椅子に座ってマリウスを待った。
甲冑を着た兵士の歩く、がちゃがちゃと金属が触れ合うやかましい音が聞こえる。外に人の気配がした。
シリアナは天幕の入り口に、眼を遣った。
天幕の入り口に垂らされた布を片手で上げて、マリウスが入ってきた。彼は夜着に、真紅の室内着を羽織っていた。寝癖がついて、左の横髪がはねている。眠っていたところに知らせを受け、すぐに駆けつけたのに違いない。
シリアナは椅子から立ち上がり、マリウスの前まで行き、背の高い男のことを見上げて頼んだ。
「姫様がいらっしゃらなくなりました。探し行かせてはいただけませんか」
男はまだ眠気の取れない顔でシリアナのことを見下ろし、頭をかいた。
「貴女が行くのですか。どうして?」
「騒ぎにしたくありません。もし姫様が逃げだしたことが大勢に知られれば、帝国についた時、姫様は今回のことを問われるでしょう。そうすれば、まだ各地に残る有力貴族の下へ行き、彼らの協力を得て公国を再興しようとしたと、姫様に謀反の疑いで罰が下される恐れがあります」
「彼女はそのつもりだったのかも知れない」
「そうだとしても、私には姫様をお守りする義務があります。天幕からは逃げ出せても、姫様一人では、この陣営から抜け出すことは不可能です。ですから姫様をお探しし、連れ戻さないと」
「貴女とて同じことだ。雑兵たちは女に飢えている。彼らは、自らの欲望を抑えるだけの自制心を持たない。天幕の周りでは雑兵たちが野営している。この軍営を抜けるには、必ず雑兵の野営を通らなければならない。一人でこの天幕を出て、無事ですむと思っているのですか?」
「いいえ。ですから公爵様にお願いしたいのです。私にはどのような評判が立っても構いません。共に姫様を探しにいってはくださいませんか」
「今宵、私と何かあったと噂になってもいいというのですか?」
最初からそのつもりのくせに、とシリアナは思う。噂が立つのが早いか、それが現実するのが早いかだけのことだ。
「侯爵様がそれをおっしゃるのですか」
マリウスに捕らわれた時から覚悟はしていたが、未来のことを考え、思わず責める口調になる。
マリウスは何度か目を瞬かせてシリアナのことを見ると、肩を大きく下げてため息をついた。
「貴女が望むのであれば、私は貴女を助けましょう」
「お願いいたします」
シリアナは小さく頭を下げた。
外に出るため外套を身につけようとしたが、長持ちの上に置いておいたはずの外套がなかった。クローディアが着て行ったに違いない。天幕の隅でシリアナが困っていると、マリウスがシリアナの肩に自分の室内着をかけてきた。シリアナは振り返り礼を言う。行きましょう、と言うマリウスに促され天幕を出た。
夜は遅かった。
規則正しく整列した天幕の間にできた通りは、静まり返っていた。
幾つかの天幕にの前に配された見張りの兵士たちが少しでも身じろぎする度、甲冑の金属が触れ合うがちゃがちゃとした音が、辺りの静寂を破った。
マリウスは見張りの兵たちに、姫君は気鬱のようだ。少し一人にして差し上げれば落ちつくだろうから、侍女は私の天幕に連れていくと説明し、シリアナを連れて歩きだした。
自らの天幕が見えなくなったところで、シリアナは立ち止まった。マリウスが不審そうな目を向けてきたが、それは無視する。
目をつむり、耳を澄ます。
レザイルと別れたあの晩に、もう何も見たくない、何も感じたくないと、封印してしまった力、それをもう一度、呼び覚ます。
体の内側に気をめぐらせ、――足の裏に感じる大地の確かさ、頭上高くに果てしなく広がる空、世界の全てが自分の体を中心にして一つになる感覚、外界と自我の境目があいまいになる。シリアナの自我が消えうせ、体の内側に眠っていた力が、シリアナの体を飲み込み、世界も飲み込む――シリアナと世界が一つになる。
目を開けた時、世界は一変していた。
穏やかに吹く風が、シリアナの耳の横で唄いかける。
そっと手を伸ばせば、通り過ぎてゆく風の精が、シリアナの指に触って笑いかける。
大地には血潮が通い出し、足の裏にほのかな温かみを感じる。
大地の栄養を吸い上げ成長した草木は、命の歌を唄い、瞬間を歓んでいる。
天に瞬く星は悠久の時を見つめ、過去と未来をつなぐ。
風の巫女は、人と世界の仲介者だ。
だからこそ、シリン高原の厳しい自然の中で生きる人人は、風の巫女を欲する。
世界をあまねく吹きわたる風は、生きとし生けるものの全ての命の源であるシーリーン女神の息吹だ。
シリアナは、クローディアを知らないかと風の精に問う。
東から西に向かって駆け抜けていく風の精たちは、いっせいに後ろを指差した。
シリアナは彼等に礼を言う。
彼等はけらけらと笑って、去っていく。
「侍女殿、どうかしましたか」
マリウスに訊ねられる。
「あちらへ」
それを無視して、シリアナは応える。止まっているマリウスを追い越すと、風の精たちが教えてくれた方へ歩き出した。
天幕の整列した区域を抜ける。十尋ほどの空白地帯が広がり、その先には雑兵たちの野営地が広がる。
彼等はもう、眠りについているはずだ。それなのに、そう遠くないところに一箇所だけ、焚き火が赤赤と燃える場所があった。
――あそこにいるの?
風の精たちに問いかければ、彼等はしきりに頷く。
シリアナがそちらに向かおうとした時、女性の叫び声がした。
クローディアの声だ。
シリアナは慌てて、焚き火に向かって走りだす。
マリウスが後ろからついてくる。
シリアナが焚き火の場所までたどりつくと、ほっそりとした長身の男と、彼の前にひれ伏す五人の雑兵たちの姿が見えた。
男の腕の中に、青い絹の室内着を羽織った少女がいた。
男の胸にうずめた少女の顔は見えない。だが、男の腕からこぼれおちる、腰までのびた亜麻色の髪は、クローディアのものだ。
「殿下」
マリウスが男のことを呼んだ。
男がふり返る。と同時に、男の腕の中にいた少女が、ぴったりとつけていた男の胸から顔を少し離し、首を回してこちらを見た
クローディアだった。
「姫様っ!!」
シリアナはクローディアに駆け寄る。
「シリアナっ」
クローディアは男の腕を抜け出すと、シリアナの胸に飛び込んでくる。
「ご無事でしたか」
シリアナは、クローディアの華奢な体を抱きとめて訊く。
「ええ」
クローディアは頷いて、声を上げて泣いた。
マリウスの斜め手前で、二人の少女が固く抱きあっている。
ダナーン聖公国の王女は、侍女の胸に安心して身をまかせ、泣き声を上げていた。
マリウスは二人の横を通り過ぎ、自国の皇子の隣に立った。
「殿下、いかがなされましたか」
「大したことではない」
ジブリアンが首を振って応える。
その間に、マリウスは焚き火の方へさっと目を遣って、状況を確認する。
ジブリアンの前で、額を地面にこすりつけて平伏する男たち。
焚き火の周りには、すでに空にされた酒瓶と、まだ封の開けられていない帝国軍の象徴であるグリフィンの蝋印がおされた酒瓶が、何本も転がっていた。
彼らは兵糧に手をつけたのだ。
それを許すジブリアンではない。
だが、ダナティア攻めに参加せず、ずっと本陣に詰めていたジブリアンが、ダナーン聖公国の首都ダナティアを落とし、無事に故郷に帰れるのだと浮かれている兵たちに、厳しい罰を下しても逆効果だ。強制的に前線に送られ、命を賭して戦った彼らは、安全な場所で守られていた皇族が何を言うのだと、反発心しか抱かない。
兵たちへの罰は、マリウスが下すしかない。
マリウスはため息とともに少し肩を落とし、後は自分にまかせ、少女たちを天幕に連れていって欲しいとジブリアンに頼んだ。
変わったことはないか、暗闇の中に目をこらす。
何もない。
それを確かめて、シリアナは再び眠ろうとした。だがしかし、天幕の中の静けさに疑問を持つ。クローディアの寝息が聞こえないのだ。
慌てて飛び起きると、シリアナはクローディアの寝台に駆け寄った。
毛布の上端がめくれている。
毛布の中に手を入れると、まだ暖かった。
外にいる見張りの兵が、クローディアが外に出ることを許すはずがない。
クローディアは逃げ出したのだ。
馬鹿なことを、とシリアナは内心でつぶやく。
天幕の外には、戦いで荒くれだった男たちが大勢いる。その中にみすみす飛び込んでいくとは、血に飢えたオオカミの群れの中に、か弱い羊を投げ込む様なものだ。
男たちに喰い殺されたいと言うのか。
いや、神殿で育った世間知らずの巫女は、男たちの欲望の恐さを知らないのだ。
天幕の中に武器ない。
ここへ連れて来られた時もっていた短剣は、シリアナの自害を恐れるマリウスによって、取り上げられた。
それに、いくらシリアナに剣の心得があるからと言って、複数の男たち相手に勝てる自信はなかった。
どうするか、シリアナは考える。
今ここで、シリアナが頼れるのは、マリウスしかいない。マリウスに助けを求めればいいのだと、答えは簡単に出る。
マリウスを呼ぶため、シリアナは天幕の外に出た。
シリアナが表に出ると、見張りの兵が慌てて前を塞いだ。
シリアナに、彼らに抵抗する気はない。だからと言って、クローディアが姿を消したことを素直に教える気はなかった。
クローディアの体調が優れないようだから、マリウスにそれを伝えて欲しいと言えば、二人いた見張りの兵の内一人が、彼を呼びに行くと駆けていった。
夜着のまま外にいては風をひくからと、残った兵によって天幕の中に戻される。
シリアナは灯下に火を灯すと、椅子に座ってマリウスを待った。
甲冑を着た兵士の歩く、がちゃがちゃと金属が触れ合うやかましい音が聞こえる。外に人の気配がした。
シリアナは天幕の入り口に、眼を遣った。
天幕の入り口に垂らされた布を片手で上げて、マリウスが入ってきた。彼は夜着に、真紅の室内着を羽織っていた。寝癖がついて、左の横髪がはねている。眠っていたところに知らせを受け、すぐに駆けつけたのに違いない。
シリアナは椅子から立ち上がり、マリウスの前まで行き、背の高い男のことを見上げて頼んだ。
「姫様がいらっしゃらなくなりました。探し行かせてはいただけませんか」
男はまだ眠気の取れない顔でシリアナのことを見下ろし、頭をかいた。
「貴女が行くのですか。どうして?」
「騒ぎにしたくありません。もし姫様が逃げだしたことが大勢に知られれば、帝国についた時、姫様は今回のことを問われるでしょう。そうすれば、まだ各地に残る有力貴族の下へ行き、彼らの協力を得て公国を再興しようとしたと、姫様に謀反の疑いで罰が下される恐れがあります」
「彼女はそのつもりだったのかも知れない」
「そうだとしても、私には姫様をお守りする義務があります。天幕からは逃げ出せても、姫様一人では、この陣営から抜け出すことは不可能です。ですから姫様をお探しし、連れ戻さないと」
「貴女とて同じことだ。雑兵たちは女に飢えている。彼らは、自らの欲望を抑えるだけの自制心を持たない。天幕の周りでは雑兵たちが野営している。この軍営を抜けるには、必ず雑兵の野営を通らなければならない。一人でこの天幕を出て、無事ですむと思っているのですか?」
「いいえ。ですから公爵様にお願いしたいのです。私にはどのような評判が立っても構いません。共に姫様を探しにいってはくださいませんか」
「今宵、私と何かあったと噂になってもいいというのですか?」
最初からそのつもりのくせに、とシリアナは思う。噂が立つのが早いか、それが現実するのが早いかだけのことだ。
「侯爵様がそれをおっしゃるのですか」
マリウスに捕らわれた時から覚悟はしていたが、未来のことを考え、思わず責める口調になる。
マリウスは何度か目を瞬かせてシリアナのことを見ると、肩を大きく下げてため息をついた。
「貴女が望むのであれば、私は貴女を助けましょう」
「お願いいたします」
シリアナは小さく頭を下げた。
外に出るため外套を身につけようとしたが、長持ちの上に置いておいたはずの外套がなかった。クローディアが着て行ったに違いない。天幕の隅でシリアナが困っていると、マリウスがシリアナの肩に自分の室内着をかけてきた。シリアナは振り返り礼を言う。行きましょう、と言うマリウスに促され天幕を出た。
夜は遅かった。
規則正しく整列した天幕の間にできた通りは、静まり返っていた。
幾つかの天幕にの前に配された見張りの兵士たちが少しでも身じろぎする度、甲冑の金属が触れ合うがちゃがちゃとした音が、辺りの静寂を破った。
マリウスは見張りの兵たちに、姫君は気鬱のようだ。少し一人にして差し上げれば落ちつくだろうから、侍女は私の天幕に連れていくと説明し、シリアナを連れて歩きだした。
自らの天幕が見えなくなったところで、シリアナは立ち止まった。マリウスが不審そうな目を向けてきたが、それは無視する。
目をつむり、耳を澄ます。
レザイルと別れたあの晩に、もう何も見たくない、何も感じたくないと、封印してしまった力、それをもう一度、呼び覚ます。
体の内側に気をめぐらせ、――足の裏に感じる大地の確かさ、頭上高くに果てしなく広がる空、世界の全てが自分の体を中心にして一つになる感覚、外界と自我の境目があいまいになる。シリアナの自我が消えうせ、体の内側に眠っていた力が、シリアナの体を飲み込み、世界も飲み込む――シリアナと世界が一つになる。
目を開けた時、世界は一変していた。
穏やかに吹く風が、シリアナの耳の横で唄いかける。
そっと手を伸ばせば、通り過ぎてゆく風の精が、シリアナの指に触って笑いかける。
大地には血潮が通い出し、足の裏にほのかな温かみを感じる。
大地の栄養を吸い上げ成長した草木は、命の歌を唄い、瞬間を歓んでいる。
天に瞬く星は悠久の時を見つめ、過去と未来をつなぐ。
風の巫女は、人と世界の仲介者だ。
だからこそ、シリン高原の厳しい自然の中で生きる人人は、風の巫女を欲する。
世界をあまねく吹きわたる風は、生きとし生けるものの全ての命の源であるシーリーン女神の息吹だ。
シリアナは、クローディアを知らないかと風の精に問う。
東から西に向かって駆け抜けていく風の精たちは、いっせいに後ろを指差した。
シリアナは彼等に礼を言う。
彼等はけらけらと笑って、去っていく。
「侍女殿、どうかしましたか」
マリウスに訊ねられる。
「あちらへ」
それを無視して、シリアナは応える。止まっているマリウスを追い越すと、風の精たちが教えてくれた方へ歩き出した。
天幕の整列した区域を抜ける。十尋ほどの空白地帯が広がり、その先には雑兵たちの野営地が広がる。
彼等はもう、眠りについているはずだ。それなのに、そう遠くないところに一箇所だけ、焚き火が赤赤と燃える場所があった。
――あそこにいるの?
風の精たちに問いかければ、彼等はしきりに頷く。
シリアナがそちらに向かおうとした時、女性の叫び声がした。
クローディアの声だ。
シリアナは慌てて、焚き火に向かって走りだす。
マリウスが後ろからついてくる。
シリアナが焚き火の場所までたどりつくと、ほっそりとした長身の男と、彼の前にひれ伏す五人の雑兵たちの姿が見えた。
男の腕の中に、青い絹の室内着を羽織った少女がいた。
男の胸にうずめた少女の顔は見えない。だが、男の腕からこぼれおちる、腰までのびた亜麻色の髪は、クローディアのものだ。
「殿下」
マリウスが男のことを呼んだ。
男がふり返る。と同時に、男の腕の中にいた少女が、ぴったりとつけていた男の胸から顔を少し離し、首を回してこちらを見た
クローディアだった。
「姫様っ!!」
シリアナはクローディアに駆け寄る。
「シリアナっ」
クローディアは男の腕を抜け出すと、シリアナの胸に飛び込んでくる。
「ご無事でしたか」
シリアナは、クローディアの華奢な体を抱きとめて訊く。
「ええ」
クローディアは頷いて、声を上げて泣いた。
マリウスの斜め手前で、二人の少女が固く抱きあっている。
ダナーン聖公国の王女は、侍女の胸に安心して身をまかせ、泣き声を上げていた。
マリウスは二人の横を通り過ぎ、自国の皇子の隣に立った。
「殿下、いかがなされましたか」
「大したことではない」
ジブリアンが首を振って応える。
その間に、マリウスは焚き火の方へさっと目を遣って、状況を確認する。
ジブリアンの前で、額を地面にこすりつけて平伏する男たち。
焚き火の周りには、すでに空にされた酒瓶と、まだ封の開けられていない帝国軍の象徴であるグリフィンの蝋印がおされた酒瓶が、何本も転がっていた。
彼らは兵糧に手をつけたのだ。
それを許すジブリアンではない。
だが、ダナティア攻めに参加せず、ずっと本陣に詰めていたジブリアンが、ダナーン聖公国の首都ダナティアを落とし、無事に故郷に帰れるのだと浮かれている兵たちに、厳しい罰を下しても逆効果だ。強制的に前線に送られ、命を賭して戦った彼らは、安全な場所で守られていた皇族が何を言うのだと、反発心しか抱かない。
兵たちへの罰は、マリウスが下すしかない。
マリウスはため息とともに少し肩を落とし、後は自分にまかせ、少女たちを天幕に連れていって欲しいとジブリアンに頼んだ。