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第一章

5

 翌日の夕食後、シリアナとクローディアの天幕には、ジブリアンとマリウスがやってきていた。
 卓子(テーブル)を囲んで四人は座っていた。
 シリアナの隣の席にはマリウスが、クローディアの隣にはジブリアンが。
 ジブリアンとクローディアは、椅子の向きをかえ、向かいあって座っている。ジブリアンはクローディアの右手を両手でしっかりと握って、彼女に話しかけていた。
「貴女に無礼を働いた兵たちは、罰しました」
 ジブリアンは、クローディアの鳶色の瞳をまっすぐに見つめて話す。向かいに座るシリアナとマリウスのことなど目に入っていないようだった。
 だが、昨晩クローディアを陵辱しようとしていた兵士たちを処分したのは、マリウスのはずだ。
 シリアナは首をかしげて、マリウスのことを見た。マリウスに続きを促す。
 マリウスは大きくため息をついて、昨晩、一人あの場に残った後のことを話しはじめた。
「彼らに訊ねたところ、彼らは自らの所属と兵糧に手をつけたことを告白しました。彼らは、アルヴィエ伯爵の率いる部隊に属していました。アルヴィエ伯爵に身柄を引き渡し、軍規にしたがって処罰するよう命じました。彼らは今朝、処刑されたそうです」
 貴女の希望もありましたから、そこまで大事にはしたくなかったのですが、と言ってからマリウスは、横目でジブリアンのことを見た。
 貴女のことは命に代えても守りますから、とジブリアンはクローディアの手を握ったまま、熱心にクローディアに語りかけていた。
 クローディアは、少し面を伏せてそれを聞いている。彼女の頬は紅潮していた。
 昨晩はクローディアを落ちるかせるのに精一杯で、気にすることのできなかった帝国の皇子を、今改めて、本人には気づかれないよう横目で観察する。
 すっと通った鼻梁に切れ長の目。色白できめ細やかな肌。薄すぎず厚すぎない唇は、肉付きがよく、ふっくらとしている。深い翠玉色(エメラルドグリーン)の瞳とそれによく似合う、しっとりと輝く黒髪。背の中程までばしたその癖のないまっすぐな黒髪は、束ねることなく、後ろに流されていた。男にしては細身の体だったが、その上品な立ち居振る舞いからは、弱弱しさよりも優雅さを感じた。
 クローディアは、神殿の奥深くで巫女として大切に、大勢の人たちにかしずかれて育ってきた。彼女の周りにいるのは、ずっと女性たちだけだった。クローディアにとっては、男を感じさせない彼は、馴染みやすい相手だろう。
 昨晩の出来事があったばかりだと言うのに、ジブリアンとマリウスがこの天幕に入ってきてから一度も、クローディアはジブリアンのことを拒否するそぶりは見せなかった。

 ――私の心はあの人を求めて飛んでいく
 ――この草原をかけめぐる風よ
 ――世界の果てまであの人探し
 ――どうか私のこの気持ちを、あの人に伝えておくれ

 シリアナは、春に刈り取った羊の毛を紡ぐ時、天幕の中で女たちが歌っていた恋歌を思い出す。
 初恋、ならば、厄介な相手に恋をしたものだとシリアナは思う。
 相手は敵国の皇子だ。それだけではない。シリアナもクローディアも帝国に着いてからどのような扱いを受けるのか、今はどう考えても想像がつかないのだ。
 だが、反対してもはじまったばかりの二人の恋は燃え上がるだけだろう。
 シリアナはそっとため息をつく。どうかしましたか、と目敏くそれを見つけたマリウスに訊ねられる。クローディアとジブリアンの方を見やると、マリウスは、ああ、と頷いた。
「叶わないと知っていても、人を恋する心は、自分でもどうすることもできないものですよ」
「お心当たりがあるような、おっしゃりようですね」
「貴女にだって、想い人の一人や二人いたのでは?」
 想い人、その言葉に、思わず胸元を探る。しかし、いくら探しても、常に身に付けていたはずのオオカミの牙の首飾りはない。
 当然だ。異母兄(あに)に渡してしまったのだから。
 その異母兄(あに)の、生死すら知らず今ここにいる。
「ええ、婚約者がいました」
 シリアナは、胸の上で拳をつくって握りしめた。
 レザイルに寄せる想いは、恋と呼ぶには幼すぎた。だが、実の兄のようにレザイルのことを慕っていたのは事実だ。あの日の夜襲がなければ、自分は何の疑問も持たずにレザイルと一緒になって子を産み、バズド族の一員として今でも幸せに暮らしていただろう。
「だが今は、私のものだ」
 菫色の瞳が、力強くシリアナのことを見つめてくる。
 こうして時折マリウスの見せてくる熱情に、どうしたらいいのかわからない。
 シリアナは、胸の前の拳をさらに強く握りしめた。
 マリウスは小さくため息をつき、首を左右に振った。シリアナから視線を離すと、ジブリアンに声をかけた。
「殿下、参りましょう」
 マリウスにうながされて、ジブリアンが立ち上がる。クローディアも軽く腰を浮かした。
 二人は見つめ合い、握っていた手を名残惜しげに離す。
「また明日も来ます」
 ジブリアンが言う。
 クローディアは頷くとその場に立ち上がり、胸の前でジブリアンに握られていた手をもう片方の手で包み込む。天幕を出ていく二人を見送った。
 二人がいなくなると、クローディアは椅子に腰かけ、大きく息をはいた。
 クローディアは、卓子(テーブル)の上に肘をつき、握った両手の上に頬を載せた。
「ねえ、シリアナ、貴女は好きな殿方っていたの?」
 クローディアが、期待をこめてシリアナのことを見つめてくる。彼女の鳶色の瞳は、輝いていた。
「いいえ」
 シリアナは首を振る。
「あら、そうなの? シラールの女はふしだらで、複数の夫を持つと聞いていたのだけれど」
 クローディアが、無邪気に首をかしげた。
 確かにシリン高原では、一人の女性が複数の夫を持つことも珍しくなかった。
 財産――家畜――は家族単位に保有する。
 家畜は親から子へと受け継がれるが、シリン高原での厳しい自然環境では、一つの家族が持てる家畜の数は限られる。一組の兄弟の元に一人の女性が嫁げば、その女性から生まれた子は兄弟両方の子ということになる。兄弟に受け継がれた財産は、その子が継ぐことになり、結果、財産――家畜――が分散することをふせげる。一妻多夫という話だけが伝わって、シラールの女性は奔放だと誤解されるが、そんなことはない。夫以外の男性と関係を持ったことが知られれば、夫に殺されても文句は言えない。財産――家畜――を守るため、シリン高原に住む人人の貞操は固い。だがそれを、クローディアに説明する気はなかった。
「そのお話をどちらでお聞きになったのかは存じ上げませんが、シラールの民も、結婚相手を決めるのは本人たちではなく両親です。それにシラールの女性も、夫に対しての貞節は守ります」
「あら、そうなの」
 クローディアは残念そうに、少し唇をとがらせた。
「それより姫様、昨日のような浅慮な行為は、もう二度としないでいただけますね」
「わかっているわ。ジブリアン様にも散散注意されたもの」
 クローディアは前腕を下ろして、卓子(テーブル)の上で両手の指を組んだ。シリアナのことを上目遣いに見上げてくる。
「表の兵たちは、無礼をはたらこうとする者たちから私たちを守るために、オードラン公爵様が配してくだっさものです。安全な場所から逃げ出すようなことはおやめください。それに姫様は、バレ王家の唯一の生き残りです。帝国についた時、昨日のことでどのような罪に問われるかもわかりません。ご自身の立場もご理解いただかないと」
「十分にわかっているつもりよ。もう小言は聞きたくないわ」
 クローディアは、形よく、つんととがった頤を背けた。
「でしたらよろしいのです。お休みになる支度をいたしましょう」
 シリアナは、椅子から立ち上がった。
 ダルバード帝国へ向かう道のりは快適だった。と言うのは、シリアナの感想で、クローディアは違ったらしい。
 二人は今、幌をかけた荷馬車に乗せられていた。
 向かいに座るクローディアは、毛布を何枚か丸めてつくったクッションに、ぐったりと身を預けている。眉間にシワを寄せて目をきゅっとつむり、荷馬車の揺れに耐えていた。
 馬車が動いている間は、ずっと具合が悪そうにしている。酔ったのだ。
 しかし、一月ほど続いた旅ももうすぐ終わる。
 ダルバード帝国領に入ってから二十五日。帝都はもうすぐそこだった。
 昨日の夕方頃から変わった風のにおいに、それを感じる。
 湿り気を持った風は、少し重い。魚の腐臭をかなり薄めたような、すえた臭いのするべとべととした風。なれない臭いにシリアナが辟易していると、海のにおいだよ、と風の精たちが教えてくれた。
 海のことは、幼い頃に父から聞いたことがある。
 父が若い頃、親善のためにダルバード帝国の帝都を訪れた時に見たそうだ。
 青い空の下に、どこまでも続く大きな水たまり。湖と何が違うのと訊けば、海には大きな白波が立ち、舐めればひどく塩辛いのだと教えてくれた。
 虜囚の身でなければ、生まれて初めて海を見られると心弾ませていられただろう。
 帝都の近づく今、物見遊山のような気持ちで、この状況を楽しむ気になれるはずはない。
 退屈そうに手綱を握る御者の後ろ姿を見ながら、シリアナは思った。
 太鼓を叩く音が、辺りに大きく三回響いた。
 御者が手綱を引き、荷馬車を止める。荷台が大きく揺れた。
 クローディアは体勢を崩して、大きく前に体をかしげた。体をもとの位置に戻して、不安げに狭い荷馬車の中を見回した。
「シリアナ、どうしたの?」
「確かめて参ります」
 シリアナは、荷馬車の中をいざって前方へ移動する。幌の中から御者台に向かって顔を突き出し、馬車を操る兵に訊ねた。
「何事かあったのですか? 姫様が心配なさっています。教えていただけませんか」
 クローディアとシリアナと同じ年頃の兵は振り返り、破顔した。
「帝都にいる連中が、オレたちの凱旋を迎える準備ができるのを、ここで待つだけですよ」
 ありがとうございますと言って、幌の中に戻る。クローディアに兵から聞いたことを伝えた。
 クローディアは、興味がなさそうにそれを聞いている。
「姫様、よろしいですか。帝都に入りましたら、どのような扱いを受けるかはわかりません。どのような事態になりましても、バレ王家の一員としての誇りだけは、お忘れなきようにお願い申し上げます」
 シリアナは、その場に深深と頭を下げて頼む。
 クローディアは口元を抑え、小さくあくびをした。
「心配しすぎよ、シリアナ。ジブリアン様がよくしてくださるはずだわ。私は少し寝るわね」
 毛布を何枚か丸めてつくったクッションの上で両腕を重ね、その上に額をのせて昼寝をはじめる。
 クローディアの気楽な様子に、シリアナはため息をついた。
 クローディアが昼寝をしてしばらくしてから、ジブリアンが二人の荷馬車を訪れた。
 荷台に乗りこみながら、ジブリアンがクローディアに声をかける。
 クローディアは、さっとはじかれるように身を起こした。
「ジブリアン様」
 クローディアの頬が、朱に染まる。
 ジブリアンは、あまり時間がないと前置きしてから、クローディアの前に座った。膝がつくほどにじりよって、クローディアの白くほっそりとした手を握った。
「貴女はバレ王家の最後の生き残りです。帝都につけば、そのことが理由で、貴女はきっとつらい思いをするでしょう。でも私は、貴女のことを愛しています。帝都についたらまず一番に、貴女を私の妻に迎えたいと、父上に願い出るつもりです。どうか私の愛を信じてください」
「もちろんです。ジブリアン様」
 二人は見つめ合う。鳶色の瞳を輝かせて、クローディアが応えた。
 あれから毎日、ジブリアンとマリウスは夕食後に、クローディアとシリアナの下を訪れていた。
 四半刻ほどもない短い時間だったが、毎日の逢瀬を重ねるうちに、二人は心を通わせるようになっていた。
「クローディア」
 ジブリアンが、クローディアの華奢な体を抱き寄せた。ジブリアンはクローディアの亜麻色の髪に顔をうずめて、息をいっぱいに吸い込んだ。クローディアは、ゆっくりとした動作で、ジブリアンの背中に腕をまわした。そうして彼女は、ジブリアンの腕の中でなされるがままになる。
 ジブリアンは少し拘束を弱めると、クローディアの首もとから顔を離す。
 二人は再び見つめ合い、どちらともなく顔を近づけ、小鳥がついばむような口づけを何度か交わした。
 恋人たちの甘やかな触れ合いは、見ている方が恥ずかしくなる。
 シリアナは軽く咳払いをした。二人が同時にシリアナのことを見る。そこにシリアナがいたのに、やっと気づいたかのように、二人は慌てて身を離し、距離をおいた。
 ジブリアンが、シリアナに向き直って言う。
「クローディア殿に対する私の気持ちに偽りはありません。クローディア殿によく仕えてくれている貴女のことも粗略に扱うつもりはありません。だから帝都についてからのことを、貴女も心配しないでください」
「お心遣い、いたみいります」
 シリアナは、その場に深く頭を下げた。

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