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第二章
2
閂が外される音がした。
毛布にくるまって長椅子に眠っていたシリアナは、枕代わりにしていた肘掛けから頭を起こした。
分厚いオークの扉が、ゆっくりと外側から押し開かれる。
塔の小部屋に、一人の兵士が入ってきた。
シリアナは兵士の様子を観察する。兵士は濃紺の羊毛の詰め襟の軍服を着ていた。金糸の紐で縁取られた赤い肩章の真ん中には、金色の糸でグリフィンとその上下に五芒星の刺繍がされていた。腰から下げた剣の鍔には絡み合う蔦の文様彫られ、見事な装飾がされている。身分ある人物のようだ。
シリアナは立ち上がり、毛布を長椅子の上に丸めておくと兵士の前で膝をついた。
兵士は、シリアナとクローディアの処分が決まったと言う。
シリアナは兵士の顔を見上げた。バレ王家の生き残りであるシリアナとクローディアを、今朝一番に処刑するというのだろうか。
だが、兵士の顔に、重い処罰を告げる者らしい固い表情は見られない。
「お立ち下さい」
兵士は微笑みながら言って、シリアナに向かって手を伸ばした。
シリアナはためらいながら、白い絹の手袋をつけた兵士の手を取り、立ち上がった。
「姫君を起こして差し上げてはいかかですか」
兵士は寝台で眠るクローディアを見て言う。
シリアナは頷く。寝台まで行って、穏やかにに寝息を立てるクローディアの肩を叩いた。
「うっ、う、ううん」
クローディアは小さく身じろぎし、目を開ける。何度か瞬きし、首を傾げた。
「おはよう、シリアナ。朝から深刻そうな顔をしてどうしたの?」
「わたくしたちの処遇が決まったそうです。ただいま伝令の方がいらっしゃいました。姫様、お起きください」
「まあ、ジブリアン様が、お父様から結婚のお許しをいただいたのね」
クローディアが寝台の上に飛び起きる。
シリアナは、卓子の上においておいた室内着を広げて、クローディアの肩にかける。
クローディアは室内着に袖を通し、前の紐を結ぶと、扉の前に立った兵士のことを見た。
「それで、ジブリアン様はどこにいらっしゃるの?」
クローディアが部屋の中を見まわす。兵士の顔に一瞬、苦い表情が走ったのを、シリアナは見逃さなかった。だが兵士は、その感情を真面目な表情ですぐに覆い隠すと、その場で気をつけをし、左手に持っていた羊皮紙の巻物を両手で広げ読み上げた。
それは、クローディアが側室になる旨を正式に告げる書状だった。
「ダナーン聖公国第一王女クローディア殿下につきましては、ダルバード帝国皇帝陛下の命により、本日よりその地位を剥奪され、常婦の称号が与えられることとなります」
「う、嘘よ、後宮へ入るなんて。ジブリアン様は私を妻に迎えると約束して下さったのよ」
クローディアが、その場に伏せてわっと泣き出した。
いつものようにクローディアのことを慰めようと、彼女の背に手を伸ばそうとしたところで、兵士に声をかけられる。シリアナは振り返った。
「オードラン公爵がお屋敷でお待ちです。侍女殿は、一緒にいらしていただけますか」
「――ですが……」
シリアナは、伸ばしかけていた手を胸元に引き寄せ、もう片方の手で握り込む。声を上げて泣き続けるクローディアの方へ視線をやった。
「ご心配は最もです。側室様には、すぐに新しい侍女もおつけいたします。宮の支度が整い次第、側室様にはそちらにお移りいただく予定です。陛下の寵愛を受けられることとなりましたら、側室様も何不自由ない生活がお約束されることでしょう。セリア」
兵士が振り返って呼ぶ。分厚いオークの扉が開いて、一人の少女が入ってきた。
「セリアと申します。側室様をお世話差し上げるよう、陛下より申しつかっております。ただ今より、側室様のお世話は私にお任せください」
ドレスの裾をつかんで、片足を少し後ろに引いて膝を曲げると、少女はちょこんと頭を下げた。
「私の妹です。兄の私が言うのも何ですが、気だてがよいことだけは確かです。侍女殿、後は安心してセリアに任せていただけませんか」
「陛下より仰せつかったお役目です。心より側室様にお仕えさせていただくことをお約束いたします」
セリアが深深と頭を下げた。
「姫様のこと、どうぞよろしくお願いいたします」
シリアナは、首だけを曲げて頭を下げる。
セリアは顔を上げて、もちろんです、と言って微笑んだ。
兵士に連れられ塔の外にでる。オードラン公爵家からの迎えの馬車だと言って乗せられたのは、宮殿にやってくる時に乗っていた荷馬車とは違う、立派な馬車だった。
黒塗りの箱馬車。馬車の中央には人が一人乗り降りできる扉があった。扉の上半分は窓となっていて、その下には、翼を広げた双頭の鷲が浮き彫りにされ、金箔がはられ輝いていた。
扉を挟んだ左右の窓には、黒みを帯びた深い緑色に、銀糸で百合の花と葉の模様が織り込まれた厚手の緞帳が斜めにかけられ、窓の半分を覆っていた。
御者に手を支えられ、昇降口に足をかける。一歩中に足を踏み入れると、床に敷かれた深紅の毛足の長い絨毯が、優しく足下を包み込む。向かい合う二人掛けの座席には、やや黒みがかった赤い皮がはられていた。腰掛けると、程よくきいたクッションがしっかりと背中を支える。背もたれに体を預ける。なめし革の滑らかな肌触りが心地よかった。
馬車は、舗装された石畳の道を走っていた。
石と石の継ぎ目に車輪がひっかかると、ゴトリ、と大きな音がした。馬車には揺れを抑えるためのバネが入っているのか、酷い揺れは感じなかった。
幽閉されていた塔の部屋では、長椅子の上で体を小さくして寝ていたが、やはりよく休めなかったらしい。馬車の揺れに眠りを誘われ、シリアナはうつらうつらとしはじめる。
馬車がとまって、シリアナは目を覚ました。
座席の横の窓に顔を寄せ、シリアナは外を見た。
馬車は、両開きの大きな黒い鉄門の前にとまっていた。
鉄門の左右には、人の背丈の二倍ほどはある、石を積み上げてつくった壁が続いている。馬車の中からでは、壁の両端は見通せなかった。
御者が声をかけると、鉄門は軋んだ音を立てて、内側に向かって開いた。
馬車は再び動き出し、鉄門を通りすぎる。
奥に大きな建物が見える。
特徴的な丸屋根の玄関広間を中心に、鳥が翼を広げたように左右に両翼が広がる。
馬車は、玄関広間の馬車寄せでとまった。
扉には、真鍮製の翼を広げた双頭の鷲の飾りがついていた。左右の翼からは半円状の輪っかが垂れ下がり、扉を叩けるようになっている。
御者は降り、双頭の鷲の飾りについた半円状の輪で扉を叩いた。
ややあって、扉が開く。昼の黒い正装を、一分の隙なくきちっと着こなした初老の男性が顔を出した。
御者は、初老の男性と二三言葉を交わし、馬車の戸を開けた。
御者に差し出された手をとって、シリアナは馬車を降りた。
「オードラン公爵家の使用人頭を務めております。レノーと申します。お嬢様のことをお待ちしておりました」
言って、初老の男性は深深と腰を折った。
お招きいただきありがとうございます、とシリアナは頭を下げた。旦那様がお待ちです、とレノーが言う。レノーに案内され、シリアナは屋敷の中に入った。
玄関広間は広く、天井までの吹き抜けとなっていた。
中央奥には大理石でつくられた乳白色の大階段があり、黒く塗られた鉄製の手すりがついている。手すりを支える手すり子は、黒く塗られた鉄の棒を曲げてでつくられた羽を広げた孔雀の模様になっていて、孔雀の羽の目玉の部分には金箔がはられていた。
階段は踊り場から左右に別れ、壁に沿って造られた二階の回廊にまでのびている。
踊り場の奥には、大理石でつくられた腰ほどの高さの台があり、大人二人でやっと持ち上げられそうな、大きな無地の白磁の花瓶がおいてあった。花瓶には、赤や橙色の華やかな色の大輪の花を中心とした花束が活けてあった。
一階の、踊り場から階段が折り返した部分には、左右にアラバスターの彫刻が置かれていた。
それは女性の姿をかたどった彫刻だった。女性は腰布だけを身につけ、豊かな乳房をあらわにしていた。女性は、顔は正面に向けたまま片足にだけ体重をかけ、体を少し後ろにひねって立っている。腰布も、片足の方はめくれ上がり、太ももが丸見えだった。髪を結い上げたその女性は、少し伏し目がちにして、頭の上に両手で持った水瓶を掲げ、足下に水を落とすように水瓶を斜めにしていた。それがまるで双子のように、左右対称に置かれているのだ。
丸天井には、金箔をはった彫刻でつくられた太陽を中心に綿雲が浮かんだ青空と、健康的な肢体が透けて見える春を思わせる淡い色合いの薄布を纏って飛ぶ、精霊の乙女達の姿が描かれていた。
白と左右対称を基本とした玄関広間の装飾は美しく、思わず息をのむ。
シリアナが玄関広間の有様に見とれていると、大理石の大階段に足をかけたレノーにこちらへ、と声をかけられる。シリアナはレノーに続いて歩き出した。
廊下にも、神話の一場面を表した彫刻や様様な神や女神の姿を描いた絵画など、来客の目を楽しませるさまざまなものが置かれていた。シリアナは辺りを見まわしながらは歩く。レノーが、東翼の二階にある扉の前で足をとめ、その背中にぶつかりそうになる。
レノーは、扉を二三度叩き、お嬢様をお連れいたしましたと中に向かって言った。
入れ、と応えがある。
レノーがゆっくりと扉を開け、中に入るようにシリアナをうながした。
シリアナが中に入ると、後ろで扉が静かにしまる。シリアナが慌てて振り返ると、くつくつと部屋の奥から楽しそうな笑い声がした。
「そんなに怖がらないでください」
聞き覚えのある声。シリアナは声のする方を見た。
人の背丈より高い両開きの窓がある。南向きの窓からはちょうど、一日のうちで最も高い位置にさしかかった太陽の光が、まぶしく差し込んでいた。その前に一人の男が立っている。シリアナの方からは逆光になり、男の影しか見えない。
「貴女を待っていました」
男は窓辺から離れ、シリアナの方へ向かって歩いてくる。男が窓辺の日だまりから抜けると、男の姿がはっきりと見えた。
「オードラン公爵様」
シリアナはその場に膝をつき、頭を下げた。
「やめて下さい」
そう言って、男が手を差し出してくる。
「さあ」
男に促される。シリアナは男の手を取って、立ち上がった。
男は、シリアナの手を自分の腕に絡ませて歩き出す。背の低い卓子の前に置かれた長椅子に案内された。勧められるがままに、シリアナは長椅子に腰かけた。
男は笑い、向かいに二脚並んでおかれた一人がけの椅子に座った。
「改めて、自己紹介させていただいてもよいですか?」
シリアナは頷く。
「マリウス・ドゥ・オードランです。貴女は?」
「……バズド=ナキ・バジス=アミ・ダナ=アミ・スレ・シーリーン・スレ・アナ、シリアナとお呼びください」
「変わった名前ですね」
「……母の故郷の言葉で、バズド族のバジス家とダナ家の娘で、シーリーン女神の娘のアナ、という意味です。母はシリン高原の生まれでした。幼い頃は、母の生まれ育った部族の中で暮らしていました」
シリアナは膝の上で組んだ手をぎゅっと握る。シリアナの出自を知ると、人はあざけりの目を向けてくる。それがダナーンでの常だった。だがマリウスは、優しく微笑むだけだった。
「そうでしたか。シリン高原で暮らす人人は、歩き出すより前に、自分の体の一部のように馬を乗りこなすと聞きます。馬はお好きですか」
「……ええ。風の中を駈けるのが一番好きです」
「そうですか。オードラン家の領地に、馬を駈けさせるのにちょうどよい丘陵があります。帝都からオードラン家の領地までは、馬を急がせて一日ほど。ご婦人に合わせて馬車でゆっくり行ったとしても三日ほどでしょう。数日の内に領地に戻るつもりです。戻ったら、遠駈けにお誘いしてもよろしいですか」
「私などではなく、他のご婦人をお誘いになってはいかがですか」
シリアナは、真っすぐにマリウスのことを見た。
誰もが認める美男ではないが、切れ長の大きな瞳に、彫りの深い、野性味のあふれる顔立ちをしていた。容姿だけではない。地位も財力もある。彼と親しくしたいと望む女性は多いだろう。薄っすらと笑みを浮かべた唇とは対象的に、菫色の瞳は真剣な眼差しでシリアナのことを見つめていた。明るい色の金髪が、後ろの窓から差し込む光を反射して、淡く光っている。よく鍛え上げられた体は、大きくてたくましい。長くすらりと伸びた両足を組み、膝の上で両手を重ねている。剣を握ることに慣れた、肉厚な手だった。
「せっかく妻と時を共にしようというのに、何故、他の女性を誘わなければならないのですか?」
「愛人であるというのならまだしも、シラールの民である私を妻になさるなど、公爵様の名誉が傷つきます。おやめください」
言ってシリアナはうつむく。
オードラン公爵家へ連れて行くと言われた時から、今目の前にいる男の女になるのだと覚悟はしていた。だが、妻になるのは嫌だった。
オードラン公爵夫人と言えば、夫に従い、社交の場に出ることも多いだろう。その時、蛮族の娘と人人から向けられるであろう好奇な目には耐えられない。ならば愛人として、マリウスの興味が失せるまでひっそりと、屋敷の奥にでも帝都の別邸にでも囲われているほうがマシだった。
「ですが、既に陛下からのお許しもでた。今更、貴女が嫌だから結婚をやめると言う訳にはいきません」
「跡継ぎはどうなさるのですか? 蛮族の女との間にできた子など、公爵様の跡取りにはふさわしくないはずです」
「それなら心配はありません。領地に六年前に死んだ兄の妻と、兄の忘れ形見の甥っ子がいます。先日、甥は私の養子となりました。オードラン公爵家は甥が継ぎます」
「蛮族の女が、夫の後を継いだ義弟君の妻になるとあっては、夫人はよい顔をなされないでしょう」
「義姉上は、そのようなことにこだわるお方ではない。貴女が気になさることはありません。それとも、婚約者のことが忘れられないのですか?」
「婚約者?」
ダナティア城の周りに敷かれた帝国軍の陣営にはられた天幕の中で、そんなことをマリウスに話したことがあったのを思い出す。
「ええ。これは貴女の婚約者のものでしょう」
言ってマリウスは、ポケットに手を入れる。取り出したものを卓子の上に乱暴においた。
乾ききって、茶色く変色した血がこびりついている。根元の部分に精緻な掘りの施された、三日月の形に曲がった円錐型の飾り。
根元の部分に彫る文様は、部族ごとに決まっている。二重螺旋をかたどったの文様は、バズド族のものだ。見間違えるはずがない。それは異母兄に渡したはずの、白いオオカミの牙の首飾りだった。
「――どうして、公爵様がこれを……」
今、自分の目の前にこれがあることが信じられない。バズド族が襲われたあの晩。多くのものが侵略者と戦って死に、助かった者も奴隷として売られていったはずだ。シリン高原に生きる人人は、厳しい自然と向き合って生きている。奪い奪われるのは当たり前のことだった。その時のために、男も女も徹底的に剣と武術を仕込まれる。
あの日まで、シリアナはバズド族の一員としてと誇りを持って生きていた。だが、自分だけが逃げ出し、生き延びた。その罪悪感。やっと、レザイルとの約束から解放されたと思っていたのに。
シリアナは、オオカミの牙の首飾りに手を伸ばす。オオカミの牙に触れるよりも早く、マリウスが立ち上がり、シリアナの手首をつかんだ。そのまま上に引き上げられ、彼の胸に抱き寄せられる。
マリウスはシリアナの腰と頭をしっかりと抱きかかえ、拘束する。シリアナの頭の上に唇を寄せる。熱い吐息が、シリアナの髪にかかった。
「貴女の婚約者は私が殺した。憎むなら憎んでもいい。だが私は、貴女を自分のものにする」
「――どうして、わたしなのですか? わたしはシラールの民なのに……」
「初めて逢った時、主の名誉を守るため、死を恐れずに私の前に立ちはだかった貴女は美しかった。あの瞬間私は貴女に恋をした」
「違う。ちがうんです」
シリアナは、首を振った。
「わたしは死にたかった。でもレザイルとの約束があったから、死ぬわけにはいきませんでした。だから誰かに殺して欲しかった。クローディアのことなんてどうでもよかった。ただ、異母兄との約束があったから、わたしには生きる理由が必要だったんです」
「愛でも憎しみでも、貴女が私に向ける感情がなんであろうとかまわない。これからは私が貴女の生きる理由になる」
マリウスが力強く言い切る。
「だったらお願い。わたしに生きる証しを与えてください」
シリアナはマリウスの広い背に、両手をまわした。
後頭部を抱きしめていたマリウスの手が、首筋を回って、頤にかけられる。そのまま顔を上向かせられる。
マリウスと見つめ合う。
「後悔、しませんか」
問われて、シリアナは頷く。
「わかりました」
言ってマリウスが、顔を近づけてくる。
シリアナは目をつむる。
マリウスの唇が、シリアナの唇に重なった。
全身で感じるマリウスの体温に、心がなぐさめられる。
小鳥がついばむような口づけを何度か交わす。
何度目かに、シリアナの薄く開いた唇の隙間から、生暖かく湿ったものが入ってくる。
それは、表面がざらざらとしていた。
シリアナの歯列を何度か優しくなぞり、口腔内に深くそっと差し込まれる。
誘うように、シリアナの舌の上をちろちろと動く。時折、上あごを軽く触れてくる。
「うっ、っぅうん」
懸命に鼻で息をする。
喉をごくりと鳴らして、口腔内でからみあった二人の唾液を飲み下す。
頤にかけられたマリウスの手が、そのまま下に下がって喉をなでる。
くすぐったくて身をふるわせる。いつの間にか、腰から上ってシリアナの後頭部を支えていたマリウスの片手に、後ろに下がることを阻まれた。
「ふっ、ぅうん」
マリウスの舌が、シリアナの舌を絡めとる。そしてそのまま、激しく吸われる。
「うっぅん」
初めて向けられた男性の欲望に、シリアナは怖くなる。
マリウスの広い胸に腕をつっぱって離れようとしたが、喉元から肩へと回った手は、シリアナの体をしっかりと抱きしめてそれを許さない。
「っぅ、っうん」
シリアナが左右の拳で何度か胸を叩くと、やっと解放された。
「――っ……」
シリアナは長く息を吐き出し、長椅子に座りこんだ。
体が震えている。うつむいて、両腕で自分の肩を抱きしめた。
「……どうして、どうして貴方だったの?」
卓子の上のオオカミの牙の首飾りを見て、シリアナはつぶやいた。
「貴女の愛する人を殺した私が憎いですか?」
シリアナは首を左右に振る。
「怖いんです。貴方に愛されるのが、幸せになるのが」
「どうして?」
「三年前の晩。わたしの部族は、別の部族に襲撃されました。男も女もなく、みな侵略者と戦いました。でもわたしだけが、ダナーン出身だった父の生家を頼って逃げ延びました。自分の出自を恥に思ったことはありません。バズド族の一員であることに誇りを持っていました。でもダナーンは、ご存知でしょう。ダナーン族の純血が尊ばれます。その中でわたしは異端だった。姫様の名誉を最期まで守り通すと誓った時、異母兄はやっと最後に、わたしのことを妹と呼んでくれました。バズド族として最期まで生きることもできなければ、ダナーン族の一員とも認められなかった。バズド族が滅びたあの日からずっと、わたしは何者にもなれなかったんです」
「シリアナ・ドゥ・オードラン」
聞き慣れない名に、シリアナは顔を上げる。
卓子の向こうに立ったマリウスが、真っすぐにこちらを見下ろしている。
「バズド族も滅び、ダナーン聖公国も滅びた。貴女は自由だ。何者でもない。だが、貴女は今から私の妻になる。私に、貴女の夫になる栄誉を与えてはいただけませんか?」
マリウスが微笑む。シリアナは頷いた。
閂が外される音がした。
毛布にくるまって長椅子に眠っていたシリアナは、枕代わりにしていた肘掛けから頭を起こした。
分厚いオークの扉が、ゆっくりと外側から押し開かれる。
塔の小部屋に、一人の兵士が入ってきた。
シリアナは兵士の様子を観察する。兵士は濃紺の羊毛の詰め襟の軍服を着ていた。金糸の紐で縁取られた赤い肩章の真ん中には、金色の糸でグリフィンとその上下に五芒星の刺繍がされていた。腰から下げた剣の鍔には絡み合う蔦の文様彫られ、見事な装飾がされている。身分ある人物のようだ。
シリアナは立ち上がり、毛布を長椅子の上に丸めておくと兵士の前で膝をついた。
兵士は、シリアナとクローディアの処分が決まったと言う。
シリアナは兵士の顔を見上げた。バレ王家の生き残りであるシリアナとクローディアを、今朝一番に処刑するというのだろうか。
だが、兵士の顔に、重い処罰を告げる者らしい固い表情は見られない。
「お立ち下さい」
兵士は微笑みながら言って、シリアナに向かって手を伸ばした。
シリアナはためらいながら、白い絹の手袋をつけた兵士の手を取り、立ち上がった。
「姫君を起こして差し上げてはいかかですか」
兵士は寝台で眠るクローディアを見て言う。
シリアナは頷く。寝台まで行って、穏やかにに寝息を立てるクローディアの肩を叩いた。
「うっ、う、ううん」
クローディアは小さく身じろぎし、目を開ける。何度か瞬きし、首を傾げた。
「おはよう、シリアナ。朝から深刻そうな顔をしてどうしたの?」
「わたくしたちの処遇が決まったそうです。ただいま伝令の方がいらっしゃいました。姫様、お起きください」
「まあ、ジブリアン様が、お父様から結婚のお許しをいただいたのね」
クローディアが寝台の上に飛び起きる。
シリアナは、卓子の上においておいた室内着を広げて、クローディアの肩にかける。
クローディアは室内着に袖を通し、前の紐を結ぶと、扉の前に立った兵士のことを見た。
「それで、ジブリアン様はどこにいらっしゃるの?」
クローディアが部屋の中を見まわす。兵士の顔に一瞬、苦い表情が走ったのを、シリアナは見逃さなかった。だが兵士は、その感情を真面目な表情ですぐに覆い隠すと、その場で気をつけをし、左手に持っていた羊皮紙の巻物を両手で広げ読み上げた。
それは、クローディアが側室になる旨を正式に告げる書状だった。
「ダナーン聖公国第一王女クローディア殿下につきましては、ダルバード帝国皇帝陛下の命により、本日よりその地位を剥奪され、常婦の称号が与えられることとなります」
「う、嘘よ、後宮へ入るなんて。ジブリアン様は私を妻に迎えると約束して下さったのよ」
クローディアが、その場に伏せてわっと泣き出した。
いつものようにクローディアのことを慰めようと、彼女の背に手を伸ばそうとしたところで、兵士に声をかけられる。シリアナは振り返った。
「オードラン公爵がお屋敷でお待ちです。侍女殿は、一緒にいらしていただけますか」
「――ですが……」
シリアナは、伸ばしかけていた手を胸元に引き寄せ、もう片方の手で握り込む。声を上げて泣き続けるクローディアの方へ視線をやった。
「ご心配は最もです。側室様には、すぐに新しい侍女もおつけいたします。宮の支度が整い次第、側室様にはそちらにお移りいただく予定です。陛下の寵愛を受けられることとなりましたら、側室様も何不自由ない生活がお約束されることでしょう。セリア」
兵士が振り返って呼ぶ。分厚いオークの扉が開いて、一人の少女が入ってきた。
「セリアと申します。側室様をお世話差し上げるよう、陛下より申しつかっております。ただ今より、側室様のお世話は私にお任せください」
ドレスの裾をつかんで、片足を少し後ろに引いて膝を曲げると、少女はちょこんと頭を下げた。
「私の妹です。兄の私が言うのも何ですが、気だてがよいことだけは確かです。侍女殿、後は安心してセリアに任せていただけませんか」
「陛下より仰せつかったお役目です。心より側室様にお仕えさせていただくことをお約束いたします」
セリアが深深と頭を下げた。
「姫様のこと、どうぞよろしくお願いいたします」
シリアナは、首だけを曲げて頭を下げる。
セリアは顔を上げて、もちろんです、と言って微笑んだ。
兵士に連れられ塔の外にでる。オードラン公爵家からの迎えの馬車だと言って乗せられたのは、宮殿にやってくる時に乗っていた荷馬車とは違う、立派な馬車だった。
黒塗りの箱馬車。馬車の中央には人が一人乗り降りできる扉があった。扉の上半分は窓となっていて、その下には、翼を広げた双頭の鷲が浮き彫りにされ、金箔がはられ輝いていた。
扉を挟んだ左右の窓には、黒みを帯びた深い緑色に、銀糸で百合の花と葉の模様が織り込まれた厚手の緞帳が斜めにかけられ、窓の半分を覆っていた。
御者に手を支えられ、昇降口に足をかける。一歩中に足を踏み入れると、床に敷かれた深紅の毛足の長い絨毯が、優しく足下を包み込む。向かい合う二人掛けの座席には、やや黒みがかった赤い皮がはられていた。腰掛けると、程よくきいたクッションがしっかりと背中を支える。背もたれに体を預ける。なめし革の滑らかな肌触りが心地よかった。
馬車は、舗装された石畳の道を走っていた。
石と石の継ぎ目に車輪がひっかかると、ゴトリ、と大きな音がした。馬車には揺れを抑えるためのバネが入っているのか、酷い揺れは感じなかった。
幽閉されていた塔の部屋では、長椅子の上で体を小さくして寝ていたが、やはりよく休めなかったらしい。馬車の揺れに眠りを誘われ、シリアナはうつらうつらとしはじめる。
馬車がとまって、シリアナは目を覚ました。
座席の横の窓に顔を寄せ、シリアナは外を見た。
馬車は、両開きの大きな黒い鉄門の前にとまっていた。
鉄門の左右には、人の背丈の二倍ほどはある、石を積み上げてつくった壁が続いている。馬車の中からでは、壁の両端は見通せなかった。
御者が声をかけると、鉄門は軋んだ音を立てて、内側に向かって開いた。
馬車は再び動き出し、鉄門を通りすぎる。
奥に大きな建物が見える。
特徴的な丸屋根の玄関広間を中心に、鳥が翼を広げたように左右に両翼が広がる。
馬車は、玄関広間の馬車寄せでとまった。
扉には、真鍮製の翼を広げた双頭の鷲の飾りがついていた。左右の翼からは半円状の輪っかが垂れ下がり、扉を叩けるようになっている。
御者は降り、双頭の鷲の飾りについた半円状の輪で扉を叩いた。
ややあって、扉が開く。昼の黒い正装を、一分の隙なくきちっと着こなした初老の男性が顔を出した。
御者は、初老の男性と二三言葉を交わし、馬車の戸を開けた。
御者に差し出された手をとって、シリアナは馬車を降りた。
「オードラン公爵家の使用人頭を務めております。レノーと申します。お嬢様のことをお待ちしておりました」
言って、初老の男性は深深と腰を折った。
お招きいただきありがとうございます、とシリアナは頭を下げた。旦那様がお待ちです、とレノーが言う。レノーに案内され、シリアナは屋敷の中に入った。
玄関広間は広く、天井までの吹き抜けとなっていた。
中央奥には大理石でつくられた乳白色の大階段があり、黒く塗られた鉄製の手すりがついている。手すりを支える手すり子は、黒く塗られた鉄の棒を曲げてでつくられた羽を広げた孔雀の模様になっていて、孔雀の羽の目玉の部分には金箔がはられていた。
階段は踊り場から左右に別れ、壁に沿って造られた二階の回廊にまでのびている。
踊り場の奥には、大理石でつくられた腰ほどの高さの台があり、大人二人でやっと持ち上げられそうな、大きな無地の白磁の花瓶がおいてあった。花瓶には、赤や橙色の華やかな色の大輪の花を中心とした花束が活けてあった。
一階の、踊り場から階段が折り返した部分には、左右にアラバスターの彫刻が置かれていた。
それは女性の姿をかたどった彫刻だった。女性は腰布だけを身につけ、豊かな乳房をあらわにしていた。女性は、顔は正面に向けたまま片足にだけ体重をかけ、体を少し後ろにひねって立っている。腰布も、片足の方はめくれ上がり、太ももが丸見えだった。髪を結い上げたその女性は、少し伏し目がちにして、頭の上に両手で持った水瓶を掲げ、足下に水を落とすように水瓶を斜めにしていた。それがまるで双子のように、左右対称に置かれているのだ。
丸天井には、金箔をはった彫刻でつくられた太陽を中心に綿雲が浮かんだ青空と、健康的な肢体が透けて見える春を思わせる淡い色合いの薄布を纏って飛ぶ、精霊の乙女達の姿が描かれていた。
白と左右対称を基本とした玄関広間の装飾は美しく、思わず息をのむ。
シリアナが玄関広間の有様に見とれていると、大理石の大階段に足をかけたレノーにこちらへ、と声をかけられる。シリアナはレノーに続いて歩き出した。
廊下にも、神話の一場面を表した彫刻や様様な神や女神の姿を描いた絵画など、来客の目を楽しませるさまざまなものが置かれていた。シリアナは辺りを見まわしながらは歩く。レノーが、東翼の二階にある扉の前で足をとめ、その背中にぶつかりそうになる。
レノーは、扉を二三度叩き、お嬢様をお連れいたしましたと中に向かって言った。
入れ、と応えがある。
レノーがゆっくりと扉を開け、中に入るようにシリアナをうながした。
シリアナが中に入ると、後ろで扉が静かにしまる。シリアナが慌てて振り返ると、くつくつと部屋の奥から楽しそうな笑い声がした。
「そんなに怖がらないでください」
聞き覚えのある声。シリアナは声のする方を見た。
人の背丈より高い両開きの窓がある。南向きの窓からはちょうど、一日のうちで最も高い位置にさしかかった太陽の光が、まぶしく差し込んでいた。その前に一人の男が立っている。シリアナの方からは逆光になり、男の影しか見えない。
「貴女を待っていました」
男は窓辺から離れ、シリアナの方へ向かって歩いてくる。男が窓辺の日だまりから抜けると、男の姿がはっきりと見えた。
「オードラン公爵様」
シリアナはその場に膝をつき、頭を下げた。
「やめて下さい」
そう言って、男が手を差し出してくる。
「さあ」
男に促される。シリアナは男の手を取って、立ち上がった。
男は、シリアナの手を自分の腕に絡ませて歩き出す。背の低い卓子の前に置かれた長椅子に案内された。勧められるがままに、シリアナは長椅子に腰かけた。
男は笑い、向かいに二脚並んでおかれた一人がけの椅子に座った。
「改めて、自己紹介させていただいてもよいですか?」
シリアナは頷く。
「マリウス・ドゥ・オードランです。貴女は?」
「……バズド=ナキ・バジス=アミ・ダナ=アミ・スレ・シーリーン・スレ・アナ、シリアナとお呼びください」
「変わった名前ですね」
「……母の故郷の言葉で、バズド族のバジス家とダナ家の娘で、シーリーン女神の娘のアナ、という意味です。母はシリン高原の生まれでした。幼い頃は、母の生まれ育った部族の中で暮らしていました」
シリアナは膝の上で組んだ手をぎゅっと握る。シリアナの出自を知ると、人はあざけりの目を向けてくる。それがダナーンでの常だった。だがマリウスは、優しく微笑むだけだった。
「そうでしたか。シリン高原で暮らす人人は、歩き出すより前に、自分の体の一部のように馬を乗りこなすと聞きます。馬はお好きですか」
「……ええ。風の中を駈けるのが一番好きです」
「そうですか。オードラン家の領地に、馬を駈けさせるのにちょうどよい丘陵があります。帝都からオードラン家の領地までは、馬を急がせて一日ほど。ご婦人に合わせて馬車でゆっくり行ったとしても三日ほどでしょう。数日の内に領地に戻るつもりです。戻ったら、遠駈けにお誘いしてもよろしいですか」
「私などではなく、他のご婦人をお誘いになってはいかがですか」
シリアナは、真っすぐにマリウスのことを見た。
誰もが認める美男ではないが、切れ長の大きな瞳に、彫りの深い、野性味のあふれる顔立ちをしていた。容姿だけではない。地位も財力もある。彼と親しくしたいと望む女性は多いだろう。薄っすらと笑みを浮かべた唇とは対象的に、菫色の瞳は真剣な眼差しでシリアナのことを見つめていた。明るい色の金髪が、後ろの窓から差し込む光を反射して、淡く光っている。よく鍛え上げられた体は、大きくてたくましい。長くすらりと伸びた両足を組み、膝の上で両手を重ねている。剣を握ることに慣れた、肉厚な手だった。
「せっかく妻と時を共にしようというのに、何故、他の女性を誘わなければならないのですか?」
「愛人であるというのならまだしも、シラールの民である私を妻になさるなど、公爵様の名誉が傷つきます。おやめください」
言ってシリアナはうつむく。
オードラン公爵家へ連れて行くと言われた時から、今目の前にいる男の女になるのだと覚悟はしていた。だが、妻になるのは嫌だった。
オードラン公爵夫人と言えば、夫に従い、社交の場に出ることも多いだろう。その時、蛮族の娘と人人から向けられるであろう好奇な目には耐えられない。ならば愛人として、マリウスの興味が失せるまでひっそりと、屋敷の奥にでも帝都の別邸にでも囲われているほうがマシだった。
「ですが、既に陛下からのお許しもでた。今更、貴女が嫌だから結婚をやめると言う訳にはいきません」
「跡継ぎはどうなさるのですか? 蛮族の女との間にできた子など、公爵様の跡取りにはふさわしくないはずです」
「それなら心配はありません。領地に六年前に死んだ兄の妻と、兄の忘れ形見の甥っ子がいます。先日、甥は私の養子となりました。オードラン公爵家は甥が継ぎます」
「蛮族の女が、夫の後を継いだ義弟君の妻になるとあっては、夫人はよい顔をなされないでしょう」
「義姉上は、そのようなことにこだわるお方ではない。貴女が気になさることはありません。それとも、婚約者のことが忘れられないのですか?」
「婚約者?」
ダナティア城の周りに敷かれた帝国軍の陣営にはられた天幕の中で、そんなことをマリウスに話したことがあったのを思い出す。
「ええ。これは貴女の婚約者のものでしょう」
言ってマリウスは、ポケットに手を入れる。取り出したものを卓子の上に乱暴においた。
乾ききって、茶色く変色した血がこびりついている。根元の部分に精緻な掘りの施された、三日月の形に曲がった円錐型の飾り。
根元の部分に彫る文様は、部族ごとに決まっている。二重螺旋をかたどったの文様は、バズド族のものだ。見間違えるはずがない。それは異母兄に渡したはずの、白いオオカミの牙の首飾りだった。
「――どうして、公爵様がこれを……」
今、自分の目の前にこれがあることが信じられない。バズド族が襲われたあの晩。多くのものが侵略者と戦って死に、助かった者も奴隷として売られていったはずだ。シリン高原に生きる人人は、厳しい自然と向き合って生きている。奪い奪われるのは当たり前のことだった。その時のために、男も女も徹底的に剣と武術を仕込まれる。
あの日まで、シリアナはバズド族の一員としてと誇りを持って生きていた。だが、自分だけが逃げ出し、生き延びた。その罪悪感。やっと、レザイルとの約束から解放されたと思っていたのに。
シリアナは、オオカミの牙の首飾りに手を伸ばす。オオカミの牙に触れるよりも早く、マリウスが立ち上がり、シリアナの手首をつかんだ。そのまま上に引き上げられ、彼の胸に抱き寄せられる。
マリウスはシリアナの腰と頭をしっかりと抱きかかえ、拘束する。シリアナの頭の上に唇を寄せる。熱い吐息が、シリアナの髪にかかった。
「貴女の婚約者は私が殺した。憎むなら憎んでもいい。だが私は、貴女を自分のものにする」
「――どうして、わたしなのですか? わたしはシラールの民なのに……」
「初めて逢った時、主の名誉を守るため、死を恐れずに私の前に立ちはだかった貴女は美しかった。あの瞬間私は貴女に恋をした」
「違う。ちがうんです」
シリアナは、首を振った。
「わたしは死にたかった。でもレザイルとの約束があったから、死ぬわけにはいきませんでした。だから誰かに殺して欲しかった。クローディアのことなんてどうでもよかった。ただ、異母兄との約束があったから、わたしには生きる理由が必要だったんです」
「愛でも憎しみでも、貴女が私に向ける感情がなんであろうとかまわない。これからは私が貴女の生きる理由になる」
マリウスが力強く言い切る。
「だったらお願い。わたしに生きる証しを与えてください」
シリアナはマリウスの広い背に、両手をまわした。
後頭部を抱きしめていたマリウスの手が、首筋を回って、頤にかけられる。そのまま顔を上向かせられる。
マリウスと見つめ合う。
「後悔、しませんか」
問われて、シリアナは頷く。
「わかりました」
言ってマリウスが、顔を近づけてくる。
シリアナは目をつむる。
マリウスの唇が、シリアナの唇に重なった。
全身で感じるマリウスの体温に、心がなぐさめられる。
小鳥がついばむような口づけを何度か交わす。
何度目かに、シリアナの薄く開いた唇の隙間から、生暖かく湿ったものが入ってくる。
それは、表面がざらざらとしていた。
シリアナの歯列を何度か優しくなぞり、口腔内に深くそっと差し込まれる。
誘うように、シリアナの舌の上をちろちろと動く。時折、上あごを軽く触れてくる。
「うっ、っぅうん」
懸命に鼻で息をする。
喉をごくりと鳴らして、口腔内でからみあった二人の唾液を飲み下す。
頤にかけられたマリウスの手が、そのまま下に下がって喉をなでる。
くすぐったくて身をふるわせる。いつの間にか、腰から上ってシリアナの後頭部を支えていたマリウスの片手に、後ろに下がることを阻まれた。
「ふっ、ぅうん」
マリウスの舌が、シリアナの舌を絡めとる。そしてそのまま、激しく吸われる。
「うっぅん」
初めて向けられた男性の欲望に、シリアナは怖くなる。
マリウスの広い胸に腕をつっぱって離れようとしたが、喉元から肩へと回った手は、シリアナの体をしっかりと抱きしめてそれを許さない。
「っぅ、っうん」
シリアナが左右の拳で何度か胸を叩くと、やっと解放された。
「――っ……」
シリアナは長く息を吐き出し、長椅子に座りこんだ。
体が震えている。うつむいて、両腕で自分の肩を抱きしめた。
「……どうして、どうして貴方だったの?」
卓子の上のオオカミの牙の首飾りを見て、シリアナはつぶやいた。
「貴女の愛する人を殺した私が憎いですか?」
シリアナは首を左右に振る。
「怖いんです。貴方に愛されるのが、幸せになるのが」
「どうして?」
「三年前の晩。わたしの部族は、別の部族に襲撃されました。男も女もなく、みな侵略者と戦いました。でもわたしだけが、ダナーン出身だった父の生家を頼って逃げ延びました。自分の出自を恥に思ったことはありません。バズド族の一員であることに誇りを持っていました。でもダナーンは、ご存知でしょう。ダナーン族の純血が尊ばれます。その中でわたしは異端だった。姫様の名誉を最期まで守り通すと誓った時、異母兄はやっと最後に、わたしのことを妹と呼んでくれました。バズド族として最期まで生きることもできなければ、ダナーン族の一員とも認められなかった。バズド族が滅びたあの日からずっと、わたしは何者にもなれなかったんです」
「シリアナ・ドゥ・オードラン」
聞き慣れない名に、シリアナは顔を上げる。
卓子の向こうに立ったマリウスが、真っすぐにこちらを見下ろしている。
「バズド族も滅び、ダナーン聖公国も滅びた。貴女は自由だ。何者でもない。だが、貴女は今から私の妻になる。私に、貴女の夫になる栄誉を与えてはいただけませんか?」
マリウスが微笑む。シリアナは頷いた。
毛布にくるまって長椅子に眠っていたシリアナは、枕代わりにしていた肘掛けから頭を起こした。
分厚いオークの扉が、ゆっくりと外側から押し開かれる。
塔の小部屋に、一人の兵士が入ってきた。
シリアナは兵士の様子を観察する。兵士は濃紺の羊毛の詰め襟の軍服を着ていた。金糸の紐で縁取られた赤い肩章の真ん中には、金色の糸でグリフィンとその上下に五芒星の刺繍がされていた。腰から下げた剣の鍔には絡み合う蔦の文様彫られ、見事な装飾がされている。身分ある人物のようだ。
シリアナは立ち上がり、毛布を長椅子の上に丸めておくと兵士の前で膝をついた。
兵士は、シリアナとクローディアの処分が決まったと言う。
シリアナは兵士の顔を見上げた。バレ王家の生き残りであるシリアナとクローディアを、今朝一番に処刑するというのだろうか。
だが、兵士の顔に、重い処罰を告げる者らしい固い表情は見られない。
「お立ち下さい」
兵士は微笑みながら言って、シリアナに向かって手を伸ばした。
シリアナはためらいながら、白い絹の手袋をつけた兵士の手を取り、立ち上がった。
「姫君を起こして差し上げてはいかかですか」
兵士は寝台で眠るクローディアを見て言う。
シリアナは頷く。寝台まで行って、穏やかにに寝息を立てるクローディアの肩を叩いた。
「うっ、う、ううん」
クローディアは小さく身じろぎし、目を開ける。何度か瞬きし、首を傾げた。
「おはよう、シリアナ。朝から深刻そうな顔をしてどうしたの?」
「わたくしたちの処遇が決まったそうです。ただいま伝令の方がいらっしゃいました。姫様、お起きください」
「まあ、ジブリアン様が、お父様から結婚のお許しをいただいたのね」
クローディアが寝台の上に飛び起きる。
シリアナは、卓子の上においておいた室内着を広げて、クローディアの肩にかける。
クローディアは室内着に袖を通し、前の紐を結ぶと、扉の前に立った兵士のことを見た。
「それで、ジブリアン様はどこにいらっしゃるの?」
クローディアが部屋の中を見まわす。兵士の顔に一瞬、苦い表情が走ったのを、シリアナは見逃さなかった。だが兵士は、その感情を真面目な表情ですぐに覆い隠すと、その場で気をつけをし、左手に持っていた羊皮紙の巻物を両手で広げ読み上げた。
それは、クローディアが側室になる旨を正式に告げる書状だった。
「ダナーン聖公国第一王女クローディア殿下につきましては、ダルバード帝国皇帝陛下の命により、本日よりその地位を剥奪され、常婦の称号が与えられることとなります」
「う、嘘よ、後宮へ入るなんて。ジブリアン様は私を妻に迎えると約束して下さったのよ」
クローディアが、その場に伏せてわっと泣き出した。
いつものようにクローディアのことを慰めようと、彼女の背に手を伸ばそうとしたところで、兵士に声をかけられる。シリアナは振り返った。
「オードラン公爵がお屋敷でお待ちです。侍女殿は、一緒にいらしていただけますか」
「――ですが……」
シリアナは、伸ばしかけていた手を胸元に引き寄せ、もう片方の手で握り込む。声を上げて泣き続けるクローディアの方へ視線をやった。
「ご心配は最もです。側室様には、すぐに新しい侍女もおつけいたします。宮の支度が整い次第、側室様にはそちらにお移りいただく予定です。陛下の寵愛を受けられることとなりましたら、側室様も何不自由ない生活がお約束されることでしょう。セリア」
兵士が振り返って呼ぶ。分厚いオークの扉が開いて、一人の少女が入ってきた。
「セリアと申します。側室様をお世話差し上げるよう、陛下より申しつかっております。ただ今より、側室様のお世話は私にお任せください」
ドレスの裾をつかんで、片足を少し後ろに引いて膝を曲げると、少女はちょこんと頭を下げた。
「私の妹です。兄の私が言うのも何ですが、気だてがよいことだけは確かです。侍女殿、後は安心してセリアに任せていただけませんか」
「陛下より仰せつかったお役目です。心より側室様にお仕えさせていただくことをお約束いたします」
セリアが深深と頭を下げた。
「姫様のこと、どうぞよろしくお願いいたします」
シリアナは、首だけを曲げて頭を下げる。
セリアは顔を上げて、もちろんです、と言って微笑んだ。
兵士に連れられ塔の外にでる。オードラン公爵家からの迎えの馬車だと言って乗せられたのは、宮殿にやってくる時に乗っていた荷馬車とは違う、立派な馬車だった。
黒塗りの箱馬車。馬車の中央には人が一人乗り降りできる扉があった。扉の上半分は窓となっていて、その下には、翼を広げた双頭の鷲が浮き彫りにされ、金箔がはられ輝いていた。
扉を挟んだ左右の窓には、黒みを帯びた深い緑色に、銀糸で百合の花と葉の模様が織り込まれた厚手の緞帳が斜めにかけられ、窓の半分を覆っていた。
御者に手を支えられ、昇降口に足をかける。一歩中に足を踏み入れると、床に敷かれた深紅の毛足の長い絨毯が、優しく足下を包み込む。向かい合う二人掛けの座席には、やや黒みがかった赤い皮がはられていた。腰掛けると、程よくきいたクッションがしっかりと背中を支える。背もたれに体を預ける。なめし革の滑らかな肌触りが心地よかった。
馬車は、舗装された石畳の道を走っていた。
石と石の継ぎ目に車輪がひっかかると、ゴトリ、と大きな音がした。馬車には揺れを抑えるためのバネが入っているのか、酷い揺れは感じなかった。
幽閉されていた塔の部屋では、長椅子の上で体を小さくして寝ていたが、やはりよく休めなかったらしい。馬車の揺れに眠りを誘われ、シリアナはうつらうつらとしはじめる。
馬車がとまって、シリアナは目を覚ました。
座席の横の窓に顔を寄せ、シリアナは外を見た。
馬車は、両開きの大きな黒い鉄門の前にとまっていた。
鉄門の左右には、人の背丈の二倍ほどはある、石を積み上げてつくった壁が続いている。馬車の中からでは、壁の両端は見通せなかった。
御者が声をかけると、鉄門は軋んだ音を立てて、内側に向かって開いた。
馬車は再び動き出し、鉄門を通りすぎる。
奥に大きな建物が見える。
特徴的な丸屋根の玄関広間を中心に、鳥が翼を広げたように左右に両翼が広がる。
馬車は、玄関広間の馬車寄せでとまった。
扉には、真鍮製の翼を広げた双頭の鷲の飾りがついていた。左右の翼からは半円状の輪っかが垂れ下がり、扉を叩けるようになっている。
御者は降り、双頭の鷲の飾りについた半円状の輪で扉を叩いた。
ややあって、扉が開く。昼の黒い正装を、一分の隙なくきちっと着こなした初老の男性が顔を出した。
御者は、初老の男性と二三言葉を交わし、馬車の戸を開けた。
御者に差し出された手をとって、シリアナは馬車を降りた。
「オードラン公爵家の使用人頭を務めております。レノーと申します。お嬢様のことをお待ちしておりました」
言って、初老の男性は深深と腰を折った。
お招きいただきありがとうございます、とシリアナは頭を下げた。旦那様がお待ちです、とレノーが言う。レノーに案内され、シリアナは屋敷の中に入った。
玄関広間は広く、天井までの吹き抜けとなっていた。
中央奥には大理石でつくられた乳白色の大階段があり、黒く塗られた鉄製の手すりがついている。手すりを支える手すり子は、黒く塗られた鉄の棒を曲げてでつくられた羽を広げた孔雀の模様になっていて、孔雀の羽の目玉の部分には金箔がはられていた。
階段は踊り場から左右に別れ、壁に沿って造られた二階の回廊にまでのびている。
踊り場の奥には、大理石でつくられた腰ほどの高さの台があり、大人二人でやっと持ち上げられそうな、大きな無地の白磁の花瓶がおいてあった。花瓶には、赤や橙色の華やかな色の大輪の花を中心とした花束が活けてあった。
一階の、踊り場から階段が折り返した部分には、左右にアラバスターの彫刻が置かれていた。
それは女性の姿をかたどった彫刻だった。女性は腰布だけを身につけ、豊かな乳房をあらわにしていた。女性は、顔は正面に向けたまま片足にだけ体重をかけ、体を少し後ろにひねって立っている。腰布も、片足の方はめくれ上がり、太ももが丸見えだった。髪を結い上げたその女性は、少し伏し目がちにして、頭の上に両手で持った水瓶を掲げ、足下に水を落とすように水瓶を斜めにしていた。それがまるで双子のように、左右対称に置かれているのだ。
丸天井には、金箔をはった彫刻でつくられた太陽を中心に綿雲が浮かんだ青空と、健康的な肢体が透けて見える春を思わせる淡い色合いの薄布を纏って飛ぶ、精霊の乙女達の姿が描かれていた。
白と左右対称を基本とした玄関広間の装飾は美しく、思わず息をのむ。
シリアナが玄関広間の有様に見とれていると、大理石の大階段に足をかけたレノーにこちらへ、と声をかけられる。シリアナはレノーに続いて歩き出した。
廊下にも、神話の一場面を表した彫刻や様様な神や女神の姿を描いた絵画など、来客の目を楽しませるさまざまなものが置かれていた。シリアナは辺りを見まわしながらは歩く。レノーが、東翼の二階にある扉の前で足をとめ、その背中にぶつかりそうになる。
レノーは、扉を二三度叩き、お嬢様をお連れいたしましたと中に向かって言った。
入れ、と応えがある。
レノーがゆっくりと扉を開け、中に入るようにシリアナをうながした。
シリアナが中に入ると、後ろで扉が静かにしまる。シリアナが慌てて振り返ると、くつくつと部屋の奥から楽しそうな笑い声がした。
「そんなに怖がらないでください」
聞き覚えのある声。シリアナは声のする方を見た。
人の背丈より高い両開きの窓がある。南向きの窓からはちょうど、一日のうちで最も高い位置にさしかかった太陽の光が、まぶしく差し込んでいた。その前に一人の男が立っている。シリアナの方からは逆光になり、男の影しか見えない。
「貴女を待っていました」
男は窓辺から離れ、シリアナの方へ向かって歩いてくる。男が窓辺の日だまりから抜けると、男の姿がはっきりと見えた。
「オードラン公爵様」
シリアナはその場に膝をつき、頭を下げた。
「やめて下さい」
そう言って、男が手を差し出してくる。
「さあ」
男に促される。シリアナは男の手を取って、立ち上がった。
男は、シリアナの手を自分の腕に絡ませて歩き出す。背の低い卓子の前に置かれた長椅子に案内された。勧められるがままに、シリアナは長椅子に腰かけた。
男は笑い、向かいに二脚並んでおかれた一人がけの椅子に座った。
「改めて、自己紹介させていただいてもよいですか?」
シリアナは頷く。
「マリウス・ドゥ・オードランです。貴女は?」
「……バズド=ナキ・バジス=アミ・ダナ=アミ・スレ・シーリーン・スレ・アナ、シリアナとお呼びください」
「変わった名前ですね」
「……母の故郷の言葉で、バズド族のバジス家とダナ家の娘で、シーリーン女神の娘のアナ、という意味です。母はシリン高原の生まれでした。幼い頃は、母の生まれ育った部族の中で暮らしていました」
シリアナは膝の上で組んだ手をぎゅっと握る。シリアナの出自を知ると、人はあざけりの目を向けてくる。それがダナーンでの常だった。だがマリウスは、優しく微笑むだけだった。
「そうでしたか。シリン高原で暮らす人人は、歩き出すより前に、自分の体の一部のように馬を乗りこなすと聞きます。馬はお好きですか」
「……ええ。風の中を駈けるのが一番好きです」
「そうですか。オードラン家の領地に、馬を駈けさせるのにちょうどよい丘陵があります。帝都からオードラン家の領地までは、馬を急がせて一日ほど。ご婦人に合わせて馬車でゆっくり行ったとしても三日ほどでしょう。数日の内に領地に戻るつもりです。戻ったら、遠駈けにお誘いしてもよろしいですか」
「私などではなく、他のご婦人をお誘いになってはいかがですか」
シリアナは、真っすぐにマリウスのことを見た。
誰もが認める美男ではないが、切れ長の大きな瞳に、彫りの深い、野性味のあふれる顔立ちをしていた。容姿だけではない。地位も財力もある。彼と親しくしたいと望む女性は多いだろう。薄っすらと笑みを浮かべた唇とは対象的に、菫色の瞳は真剣な眼差しでシリアナのことを見つめていた。明るい色の金髪が、後ろの窓から差し込む光を反射して、淡く光っている。よく鍛え上げられた体は、大きくてたくましい。長くすらりと伸びた両足を組み、膝の上で両手を重ねている。剣を握ることに慣れた、肉厚な手だった。
「せっかく妻と時を共にしようというのに、何故、他の女性を誘わなければならないのですか?」
「愛人であるというのならまだしも、シラールの民である私を妻になさるなど、公爵様の名誉が傷つきます。おやめください」
言ってシリアナはうつむく。
オードラン公爵家へ連れて行くと言われた時から、今目の前にいる男の女になるのだと覚悟はしていた。だが、妻になるのは嫌だった。
オードラン公爵夫人と言えば、夫に従い、社交の場に出ることも多いだろう。その時、蛮族の娘と人人から向けられるであろう好奇な目には耐えられない。ならば愛人として、マリウスの興味が失せるまでひっそりと、屋敷の奥にでも帝都の別邸にでも囲われているほうがマシだった。
「ですが、既に陛下からのお許しもでた。今更、貴女が嫌だから結婚をやめると言う訳にはいきません」
「跡継ぎはどうなさるのですか? 蛮族の女との間にできた子など、公爵様の跡取りにはふさわしくないはずです」
「それなら心配はありません。領地に六年前に死んだ兄の妻と、兄の忘れ形見の甥っ子がいます。先日、甥は私の養子となりました。オードラン公爵家は甥が継ぎます」
「蛮族の女が、夫の後を継いだ義弟君の妻になるとあっては、夫人はよい顔をなされないでしょう」
「義姉上は、そのようなことにこだわるお方ではない。貴女が気になさることはありません。それとも、婚約者のことが忘れられないのですか?」
「婚約者?」
ダナティア城の周りに敷かれた帝国軍の陣営にはられた天幕の中で、そんなことをマリウスに話したことがあったのを思い出す。
「ええ。これは貴女の婚約者のものでしょう」
言ってマリウスは、ポケットに手を入れる。取り出したものを卓子の上に乱暴においた。
乾ききって、茶色く変色した血がこびりついている。根元の部分に精緻な掘りの施された、三日月の形に曲がった円錐型の飾り。
根元の部分に彫る文様は、部族ごとに決まっている。二重螺旋をかたどったの文様は、バズド族のものだ。見間違えるはずがない。それは異母兄に渡したはずの、白いオオカミの牙の首飾りだった。
「――どうして、公爵様がこれを……」
今、自分の目の前にこれがあることが信じられない。バズド族が襲われたあの晩。多くのものが侵略者と戦って死に、助かった者も奴隷として売られていったはずだ。シリン高原に生きる人人は、厳しい自然と向き合って生きている。奪い奪われるのは当たり前のことだった。その時のために、男も女も徹底的に剣と武術を仕込まれる。
あの日まで、シリアナはバズド族の一員としてと誇りを持って生きていた。だが、自分だけが逃げ出し、生き延びた。その罪悪感。やっと、レザイルとの約束から解放されたと思っていたのに。
シリアナは、オオカミの牙の首飾りに手を伸ばす。オオカミの牙に触れるよりも早く、マリウスが立ち上がり、シリアナの手首をつかんだ。そのまま上に引き上げられ、彼の胸に抱き寄せられる。
マリウスはシリアナの腰と頭をしっかりと抱きかかえ、拘束する。シリアナの頭の上に唇を寄せる。熱い吐息が、シリアナの髪にかかった。
「貴女の婚約者は私が殺した。憎むなら憎んでもいい。だが私は、貴女を自分のものにする」
「――どうして、わたしなのですか? わたしはシラールの民なのに……」
「初めて逢った時、主の名誉を守るため、死を恐れずに私の前に立ちはだかった貴女は美しかった。あの瞬間私は貴女に恋をした」
「違う。ちがうんです」
シリアナは、首を振った。
「わたしは死にたかった。でもレザイルとの約束があったから、死ぬわけにはいきませんでした。だから誰かに殺して欲しかった。クローディアのことなんてどうでもよかった。ただ、異母兄との約束があったから、わたしには生きる理由が必要だったんです」
「愛でも憎しみでも、貴女が私に向ける感情がなんであろうとかまわない。これからは私が貴女の生きる理由になる」
マリウスが力強く言い切る。
「だったらお願い。わたしに生きる証しを与えてください」
シリアナはマリウスの広い背に、両手をまわした。
後頭部を抱きしめていたマリウスの手が、首筋を回って、頤にかけられる。そのまま顔を上向かせられる。
マリウスと見つめ合う。
「後悔、しませんか」
問われて、シリアナは頷く。
「わかりました」
言ってマリウスが、顔を近づけてくる。
シリアナは目をつむる。
マリウスの唇が、シリアナの唇に重なった。
全身で感じるマリウスの体温に、心がなぐさめられる。
小鳥がついばむような口づけを何度か交わす。
何度目かに、シリアナの薄く開いた唇の隙間から、生暖かく湿ったものが入ってくる。
それは、表面がざらざらとしていた。
シリアナの歯列を何度か優しくなぞり、口腔内に深くそっと差し込まれる。
誘うように、シリアナの舌の上をちろちろと動く。時折、上あごを軽く触れてくる。
「うっ、っぅうん」
懸命に鼻で息をする。
喉をごくりと鳴らして、口腔内でからみあった二人の唾液を飲み下す。
頤にかけられたマリウスの手が、そのまま下に下がって喉をなでる。
くすぐったくて身をふるわせる。いつの間にか、腰から上ってシリアナの後頭部を支えていたマリウスの片手に、後ろに下がることを阻まれた。
「ふっ、ぅうん」
マリウスの舌が、シリアナの舌を絡めとる。そしてそのまま、激しく吸われる。
「うっぅん」
初めて向けられた男性の欲望に、シリアナは怖くなる。
マリウスの広い胸に腕をつっぱって離れようとしたが、喉元から肩へと回った手は、シリアナの体をしっかりと抱きしめてそれを許さない。
「っぅ、っうん」
シリアナが左右の拳で何度か胸を叩くと、やっと解放された。
「――っ……」
シリアナは長く息を吐き出し、長椅子に座りこんだ。
体が震えている。うつむいて、両腕で自分の肩を抱きしめた。
「……どうして、どうして貴方だったの?」
卓子の上のオオカミの牙の首飾りを見て、シリアナはつぶやいた。
「貴女の愛する人を殺した私が憎いですか?」
シリアナは首を左右に振る。
「怖いんです。貴方に愛されるのが、幸せになるのが」
「どうして?」
「三年前の晩。わたしの部族は、別の部族に襲撃されました。男も女もなく、みな侵略者と戦いました。でもわたしだけが、ダナーン出身だった父の生家を頼って逃げ延びました。自分の出自を恥に思ったことはありません。バズド族の一員であることに誇りを持っていました。でもダナーンは、ご存知でしょう。ダナーン族の純血が尊ばれます。その中でわたしは異端だった。姫様の名誉を最期まで守り通すと誓った時、異母兄はやっと最後に、わたしのことを妹と呼んでくれました。バズド族として最期まで生きることもできなければ、ダナーン族の一員とも認められなかった。バズド族が滅びたあの日からずっと、わたしは何者にもなれなかったんです」
「シリアナ・ドゥ・オードラン」
聞き慣れない名に、シリアナは顔を上げる。
卓子の向こうに立ったマリウスが、真っすぐにこちらを見下ろしている。
「バズド族も滅び、ダナーン聖公国も滅びた。貴女は自由だ。何者でもない。だが、貴女は今から私の妻になる。私に、貴女の夫になる栄誉を与えてはいただけませんか?」
マリウスが微笑む。シリアナは頷いた。