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本編

3

 土曜の朝の電車は空いている。
 座れる程ではないが、吊り革に捕まってスマフォをいじるくらいの空間は空いている。人がぎゅうぎゅうで参考書を読むスペースもない平日とは大違いだ。

 千尋はドアの端に立って、見るとはなしに外を眺めていた。
 都会の電車はビルの立ち並ぶ区画の隙間を縫って進む。
 その隙間から見える青空の面積は小さい。
 からりと晴れた空は、夏の暑さを予感させた。

 引っ越しと転校、全てを終えるまで一ヶ月ほどかかった。
 引っ越しと転校の準備でバタバタとしていて、母の納骨は四十九日ではなく、千尋の生活が落ち着いてからすることに決まった。
 三崎の家に持っていきたいものは、祭壇以外には、服と学習道具とアルバムしかなかった。段ボール八箱ほどで収まってしまい、母と暮らした一五年間手元に残ったものはこれだけだったのかと少し寂しい気持ちになった。
 それを見た三崎も物の少なさに驚いて、欲しいものがあれば遠慮せずに言うようにと言われた。

「欲しいものなんてないけどな」
 母の病気がなければ、高校に入ったらバイトしようと決めていたのだ。そして稼いだ金を大学進学の足しにするつもりでいた。欲しいものと言われて、とっさには思いつかなかった。

「しいて言えばパソコンかな。でもスマフォももらったし、今すぐにはいらないよな」
 三崎の家に引っ越すとすぐ、三崎から渡されたのは人気のメーカーのスマフォだった。調べ物をするだけならスマフォでも十分だと思う。大学生になればまた少し変わってくるのもしれないが、今のところパソコンはどうしても必要とは思えなかった。
「無理して欲しいもの考え出すこともないか」
 ほっとため息をついて外を見た。
 やっと見慣れ始めた風景は、今まで通っていた高校とは違う都会の風景だ。
「暑いな」
 ワイシャツの襟首に指を入れ、パタパタと仰いだ。
 鳳学園の制服はネクタイ付きの紺のブレザーで、夏服の今の時期は、ネクタイを外した半袖のワイシャツとスラックスだけだ。前の学校は学ランだったが、夏は上着なしになるので、夏服だけで言えば前の学校と大差なかった。

 やがて電車は学校の最寄駅に着いた。
 扉が開くと吐き出されるようにして生徒たちが降りて行く。その波にのって千尋も電車を降りて、改札口へ向かった。
 改札口を出て、街路樹の植る坂道になった歩道を上がっていく。緩やかな坂だが、学習道具の入った重たい鞄を持っていると、次第に息切れしてくる。

「よっ、桐生」
 後ろから声をかけられて千尋は振り返った。
「坂本」
 大柄な少年がにっと白い歯を見せて笑った。
 同じ特進クラスの生徒で、転校初日千尋に一番に声をかけてきて、そこからなんとはなしに友達付き合いが始まった。

「桐生さ、三限の古文の訳やってきた?」
「やってきたけど」
「見せてくんない」
「どうしようかな」
「お願い。頼むよ」
 坂本が両手を合わせ、千尋のことを拝むようにした。
「俺、理数系だから古文は苦手なんだよ。桐生だけが頼りなんだ。それに今日、古文の授業絶対に当たるし。頼む」
 千尋は、はあ、とため息をついた。

「分かったよ。見せてやるよ。その代わり今度体育の後、ジュース奢れよ」
「了解。千尋殿」
 坂本がおどけて千尋に敬礼した。

「にしても暑いよな」
 坂本が手のひらでぱたぱたとあおぎながら言った。
「だな。もう夏だしな」
 梅雨明け宣言はされていなかったが、ここ数日雨は降っておらず、もう梅雨明け後の気候だった。

「桐生は夏休みの予定あるの?」
「特にないけど」
 千尋はふと空を見上げた。
 頭上には、からりと晴れたら青空が広がっている。

「なあ坂本、死んだら人の魂ってどこに行くんだと思う?」
 千尋は立ち止まり、腕を伸ばして空に向かって手を広げた。
「桐生?」
 一歩先で足を止めて、坂本が振り返った。

「母さんはどこに行っちゃったんだろうって思って」
 ぽかりと胸に空洞が空いている。そこにあるのは虚無だ。
「母さんは父さんと会えたのかな」
 だったらいいと思う。
 懐かしそうに父のことを話していた母の顔を思い出して、千尋は思った。
「なあ、坂本はどう思う」
 首を傾げて千尋は訊いた。

 千尋の前に立って、坂本ががっと両手で千尋の肩を掴んだ。
「おい、桐生、大丈夫か? お前、お袋さんが死んでからちゃんと泣いたか?」
 千尋の黒目勝ちの目を真っ直ぐに目を見つめて、坂本が言った。
「あっ、いや、どうだろう」
 思い出してみるが、泣いた記憶がない。

「多分、泣いてない」
「だったら今日は学校を休め。で思いっきり泣け。先生には俺が上手く言っておくから、な」
 ぽんと肩を叩かれ、回れ右させられる。
「ほら、もう今日は帰れ」
「三限の古典……」
「いいよ、他の誰かに頼むから。お前は家に帰って泣け。それがお前の今日の仕事。分かったらほら」
 坂本に背中を押される。戸惑いながらも千尋は学校へ向かう生徒たちの人波に逆らって、駅に向かった。

「家に帰れって言われても……」
 ――三崎の家では上手く泣ける気がしない。
 券売機の上に掲げられた路線図を見て、千尋は立ちすくんだ。
 ――どこへ行くべきか。
 そう思って、路線図を見る。
 ある駅名の上で視線が止まった。

 大きな公園のある駅。
 公園には多くの美術館に博物館、それに動物園がある。動物園と博物館には小さい頃よく連れて行ってもらった。
 それを思い出して、千尋はその駅へ向かうことに決めた。
 都内を循環する路線に乗って、駅を目指す。
 駅に着くとまっすぐに公園に向かった。

 開園時間まで時間があったので、近くのファーストフード店で時間を潰し、開園時間になってまた動物園にきた。
 動物園の中に入ると、動物の体臭に糞尿の臭いが鼻をついた。
 都内にしては広大な敷地を持つ動物園の中を歩く。目当ての動物はいない。ただぶらぶらと足を進め、母と訪れた日の面影を園内に探した。
 だが幼い頃の記憶はあやふやで、いくら回ってみても母と訪れた日の思い出は蘇ってこない。

 失望とともに園内を歩く。

 暑さにまいった動物たちは、日陰で伸びていて全くと言っていいほど動かない。
 それとは対照的に親に連れられてきた小さな子供たちが、園内を奇声を上げながら元気に走り回っている。
 テンション高く騒ぎまわる子供たちを、親たちは微笑んで見ているだけだ。
 自分にもそんな時間があったのだろうかと思うと、涙がはらりと落ちてきて、千尋は慌ててぬぐった。

 動物園を後にして、博物館に向かう。
 博物館にも親に連れられて来た子供たちがたくさんいた。
 あえて常設展を選んで入る。
 博物館の展示は見覚えのあるもので、どこか懐かしさを感じた。

「母さん」
 恐竜の骨格標本を見ながら千尋は右手で拳を握った。
 千尋の手を引いてくれていた母の手はもうどこにもない。これからは一人で歩いていくしかないのだと思うと、胸の奥につきんと痛みが走った。
 人前で泣くわけにはいかない。
 千尋は博物館を出ると駅に戻り電車に飛び乗った。
 目指すのは母と二人で暮らしたあの家だ。

 家について千尋はほっとした。
 三崎の家には必要最低限の物を持って行ったから、母の私物と家具はそのままになっている。
 この家にはまだ母と暮らした思い出が残っていた。
 千尋は畳の上にうつ伏せに倒れた。
 ここでなら思いっきり泣ける。
 母のことを思い出し、千尋は涙を流した。



 
 家に帰って来た三崎は、リビングルームの扉を開けた。
 むっと蒸し暑い空気が全身をおおう。
 ローテーブルの上に置きっぱなしになっていたリモコンを取り、エアコンをつけた。
 片手に持っていた手紙をローテーブルの上に放り、ネクタイを緩めた。
 ダイレクトメールと請求書だ。その中に一通、手書きの葉書を見つけて手に取った。
 
 三崎 由輝様
 
 柔らかな字体で宛名が書かれていた。
 送り主の名を確かめ、ぐしゃりと握りつぶし、ゴミ箱に放った。

 三崎が育った施設のシスターからの手紙だった。
 それは三崎の傷を抉るものだった。
「はあ」
 ため息をついてソファに腰掛ける。

 苦い記憶は歳月とともに過ぎ去ってはくれなかった。

 気分転換に食事をと思って三崎は立ち上がった。
 リビングに繋がっているカウンターキッチンへ行く。
 三崎の家に来てから、千尋は夕食を作るようになった。いつもなら下拵えした料理が置いてあるのだが、今日はない。
 ということは千尋は帰っていないのか。
 リビングを出て千尋の部屋に向かう。
 ノックをしながら返事はない。
 ノブを回してみると鍵はかかっていなかったので、そのまま開けた。

「千尋さん」
 顔だけ部屋の中に入れて見たが、部屋は真っ暗で人のいる気配はない。
 念のためと思って明かりをつけベッドを見たが千尋は眠っていなかった。
 明かりを消し、扉を閉める。
 スラックスの尻のポケットからスマフォを取り出す。
 メッセージアプリを起動させ、千尋からなにかメッセージが来てないかと見たが何もない。
「東山のオジキが?」
 何か仕掛けて来たとでも言うのだろうか。
 だが桐生会の跡目相続の話はまだ具体化していない。それで仕掛けてくると言うのは早すぎる。

 三崎は位置情報アプリを立ち上げた。
 このアプリでは千尋の居場所が分かるようになっている。千尋の居場所は千尋が今まで住んでいたボロアパートになっていた。
 安心すると同時に、まだこの生活には慣れないのかと少し寂しい気持ちになった。

 時計を見れば午後八時二十三分。
 終電にはまだ早い。千尋一人でも帰ってこれる時刻だ。
 だが、あのアパートで一人にしておきたくなくて、迎えにいくことにした。
 メッセージアプリでその旨伝えると、三崎は家を出て地下の駐車場へ行った。
 



 泣いているうちに眠ってしまったらしい。千尋は目を覚ました。
 真っ暗な部屋に目が慣れるまで時間がかかる。しばらくまっているとおぼろげに物の輪郭が見えるようになった。
「あちぃ」
 締め切っていた部屋はむわっと熱気がこもっていた。
 千尋は立ち上がり、窓を開けた。

 夏の熱気を孕んだ空気が部屋に入り込んできた。暑さはましにならない。
 千尋は台所まで歩いていくと、流し台で水を出した。
 蛇口から流れる水の下に頭を突っ込む。ぬるい水だったが、寝起きのぼんやりとした頭を覚醒させるには十分だった。
 頭を引き抜き水を止めると、犬のようにぶるぶると頭を振って水滴を飛ばした。その時、外の階段をリズムかるに駆け上がる足音がした。
 足音は外の廊下を歩き、部屋に近づいてくる。
 千尋のいる部屋の前で足音は止まった。

 ブザーが鳴る。
 千尋は玄関まで歩いて行き、扉を開けた。

「千尋さん」
 飛び込んできた人物に抱きしめられた。
「三崎さん?」
「帰ってきて下さい」
「どこへ」
「私の家へ」
「帰るよ」
 千尋はおずおずと三崎の身体を抱きしめ返す。
 程よく筋肉の発達した三崎の身体は、千尋のひょろりとひょろ長い身体と違って逞しい。

「俺の今の家は三崎さんの家なんだから」
「帰りましょう」
 三崎が千尋の身体を離す。二人は抱擁を解いた。
 三崎の運転する車に乗せられ、千尋は帰路についた。
「夕飯は何処かで食べて行きますか?」
「うん。そうする」
 三崎の提案に千尋は頷いた。

「今日、どうしてあの家に行ったんですか?」
 前を見たまま三崎が訊ねてきた。
「うーん、そうだな。坂本――クラスメイトにさ、母さんが死んでからちゃんと泣けたのかって言われてさ。それで泣こうと思ったら、あの家に行ってた。三崎さん家がイヤで帰ったわけじゃないよ」
「そうですか。たっぷり泣けましたか」
「うん。もう大丈夫だと思う」
「なら良かったです」
 三崎は微笑んだ。

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