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本編
1
葬儀の日も雨だった。
午前中の遅い時間だった。斎場では、僧侶の間延びした読経の声が湿っぽい空気にからんで気だるさを感じさせていた。
三崎は受付に座り、葬儀の様子を眺めていた。
弔問客は誰一人としていない。
昨日の通夜も誰一人として訪れる人はいなかった。
母と子、二人きりの生活を象徴するような寂しい葬儀だった。
親族席には、学ラン姿の少年が一人座っている。
名前は桐生千尋。
故人桐生優子の一人息子だ。
遺影の中で笑っている女性と少年は、顔の輪郭がそっくりだ。
病室で取り乱した後、彼は落ち着いていて、三崎の指示に従い淡々と葬儀の準備をこなしていた。
遺影はどうするかと訊ねた三崎に、千尋はそっとその写真を差し出してきた。
中学の卒業式の帰り、近所の写真館で撮ったものだと言う。
椅子に座っ微笑む優子の斜め後ろに仏頂面をした千尋が立っている。
どこにでもありそうな親子の写真だった。
だがこの時、病魔は確実に優子の身体を蝕んでいて、なんとか医師から外泊許可をもぎ取り、優子は千尋の中学の卒業式に出席した。
しかし日に日に体力は弱まり、高校の入学式に優子が出席することはできなかった。
今千尋が着ているのはこの春入学したばかりの高校の制服だ。県内でもトップクラスの男子校で、千尋が懸命に勉強して合格したことを三崎は知っていた。
合格の知らせを持って千尋が優子の病室を訪れた時、三崎もその場にいた。
千尋の知らせを聞いて、優子は涙を流して喜んでいた。
三崎はそれを見て、病さえなければ、二人は肩を寄せ合いながら静かにそして幸せに暮らしていけたのだろうと思った。
だが優子を襲った病魔はそれを許さなかった。
もう戻れない親子二人の幸せな日々。千尋の差し出してきた写真こそが、その象徴であるかのように三崎には感じられた。
読経が終わり、僧侶が会場を後にする。司会の女性はマイクを口元に持っていき、一度会場を見回してから台に戻した。親族席に座る千尋の側まで行き、耳元でなにやらささやいた。
千尋は頷き席を立った。
それからはあっという間だった。
会場の脇に控えていた斎場スタッフはパイプ椅子を片付け、棺を小さな会場の中央に移動させた。祭壇の花を切り、漆塗りの盆に載せていく。その花を棺の中に入れ始めた。
千尋の隣に花を載せた盆を持ったスタッフが立った。何やら少し話し、千尋は頷き、花を一輪手に取った。
棺の横に立った千尋は、じっとその中を見つめる。
「花、入れないんですか?」
三崎は千尋の斜め後ろまで歩いて行き、声をかけた。
「入れるよ」
顔の横に花を入れ、もう一輪スタッフから受け取ったその時、
斎場の入り口が騒がしくなった。
大入道を連れた杖をついた小柄な老人が斎場に入ってきたところだった。
「――会長……」
老人の姿を認めて、三崎はつぶやいた。
「よっ」
大入道が手を上げて気安く挨拶した。
「アンタたち……」
千尋が呻くように言った。
「お前が千尋か。焼香しにきたんだが」
老人が言った。
「帰れよ‼︎」
少年はなおざりに花を棺に入れるとずかずかと大股で歩いて、老人の前まで行った。
「見舞いにだって一度も来なかったくせに、今更かよ」
千尋はどん、と老人の胸を叩く。
老人がよろめき後ろに倒れる。大入道がその身体を支えた。
「坊主」
大入道が叱責する声を出した。
「大塚」大入道が次の言葉を言うよりも早く、老人が口を開いた。「いいんだ」
「ですが……」
老人は体勢を整え、千尋と向かい合う。
「邪魔したな坊主。帰るぞ大塚」
老人が踵を返した。不服そうな顔をしながら大入道も続く。
千尋は会場を出て行く二人の背をずっと睨んでいた。
「千尋さん」
三崎は千尋のところまで歩いて行って、後ろから声をかけた。
「何? じいさんのことでアンタも何か言うの?」
険しい表情で千尋が振り返った。
三崎は右手の指先で腕時計を軽く叩いた。
「時間がありませんから」
雨で遅れた僧侶の到着に、全体的に時間が押していた。
千尋が前を向いた。
その視線の先には、
すっかり花のなくなった祭壇。
棺の方へ目をやれば、棺に花を入れるため棺の周りを慌ただしく動いていたスタッフはいなくなっている。
棺の周りは静けさに満ちていた。
千尋は棺の側まで歩いて行った。
千尋は棺の横に立って、中身をじっと見下ろしていた。
やがて司会の女性から一言あって、スタッフが棺の蓋を閉じた。
葬儀の日も雨だった。
午前中の遅い時間だった。斎場では、僧侶の間延びした読経の声が湿っぽい空気にからんで気だるさを感じさせていた。
三崎は受付に座り、葬儀の様子を眺めていた。
弔問客は誰一人としていない。
昨日の通夜も誰一人として訪れる人はいなかった。
母と子、二人きりの生活を象徴するような寂しい葬儀だった。
親族席には、学ラン姿の少年が一人座っている。
名前は桐生千尋。
故人桐生優子の一人息子だ。
遺影の中で笑っている女性と少年は、顔の輪郭がそっくりだ。
病室で取り乱した後、彼は落ち着いていて、三崎の指示に従い淡々と葬儀の準備をこなしていた。
遺影はどうするかと訊ねた三崎に、千尋はそっとその写真を差し出してきた。
中学の卒業式の帰り、近所の写真館で撮ったものだと言う。
椅子に座っ微笑む優子の斜め後ろに仏頂面をした千尋が立っている。
どこにでもありそうな親子の写真だった。
だがこの時、病魔は確実に優子の身体を蝕んでいて、なんとか医師から外泊許可をもぎ取り、優子は千尋の中学の卒業式に出席した。
しかし日に日に体力は弱まり、高校の入学式に優子が出席することはできなかった。
今千尋が着ているのはこの春入学したばかりの高校の制服だ。県内でもトップクラスの男子校で、千尋が懸命に勉強して合格したことを三崎は知っていた。
合格の知らせを持って千尋が優子の病室を訪れた時、三崎もその場にいた。
千尋の知らせを聞いて、優子は涙を流して喜んでいた。
三崎はそれを見て、病さえなければ、二人は肩を寄せ合いながら静かにそして幸せに暮らしていけたのだろうと思った。
だが優子を襲った病魔はそれを許さなかった。
もう戻れない親子二人の幸せな日々。千尋の差し出してきた写真こそが、その象徴であるかのように三崎には感じられた。
読経が終わり、僧侶が会場を後にする。司会の女性はマイクを口元に持っていき、一度会場を見回してから台に戻した。親族席に座る千尋の側まで行き、耳元でなにやらささやいた。
千尋は頷き席を立った。
それからはあっという間だった。
会場の脇に控えていた斎場スタッフはパイプ椅子を片付け、棺を小さな会場の中央に移動させた。祭壇の花を切り、漆塗りの盆に載せていく。その花を棺の中に入れ始めた。
千尋の隣に花を載せた盆を持ったスタッフが立った。何やら少し話し、千尋は頷き、花を一輪手に取った。
棺の横に立った千尋は、じっとその中を見つめる。
「花、入れないんですか?」
三崎は千尋の斜め後ろまで歩いて行き、声をかけた。
「入れるよ」
顔の横に花を入れ、もう一輪スタッフから受け取ったその時、
斎場の入り口が騒がしくなった。
大入道を連れた杖をついた小柄な老人が斎場に入ってきたところだった。
「――会長……」
老人の姿を認めて、三崎はつぶやいた。
「よっ」
大入道が手を上げて気安く挨拶した。
「アンタたち……」
千尋が呻くように言った。
「お前が千尋か。焼香しにきたんだが」
老人が言った。
「帰れよ‼︎」
少年はなおざりに花を棺に入れるとずかずかと大股で歩いて、老人の前まで行った。
「見舞いにだって一度も来なかったくせに、今更かよ」
千尋はどん、と老人の胸を叩く。
老人がよろめき後ろに倒れる。大入道がその身体を支えた。
「坊主」
大入道が叱責する声を出した。
「大塚」大入道が次の言葉を言うよりも早く、老人が口を開いた。「いいんだ」
「ですが……」
老人は体勢を整え、千尋と向かい合う。
「邪魔したな坊主。帰るぞ大塚」
老人が踵を返した。不服そうな顔をしながら大入道も続く。
千尋は会場を出て行く二人の背をずっと睨んでいた。
「千尋さん」
三崎は千尋のところまで歩いて行って、後ろから声をかけた。
「何? じいさんのことでアンタも何か言うの?」
険しい表情で千尋が振り返った。
三崎は右手の指先で腕時計を軽く叩いた。
「時間がありませんから」
雨で遅れた僧侶の到着に、全体的に時間が押していた。
千尋が前を向いた。
その視線の先には、
すっかり花のなくなった祭壇。
棺の方へ目をやれば、棺に花を入れるため棺の周りを慌ただしく動いていたスタッフはいなくなっている。
棺の周りは静けさに満ちていた。
千尋は棺の側まで歩いて行った。
千尋は棺の横に立って、中身をじっと見下ろしていた。
やがて司会の女性から一言あって、スタッフが棺の蓋を閉じた。
午前中の遅い時間だった。斎場では、僧侶の間延びした読経の声が湿っぽい空気にからんで気だるさを感じさせていた。
三崎は受付に座り、葬儀の様子を眺めていた。
弔問客は誰一人としていない。
昨日の通夜も誰一人として訪れる人はいなかった。
母と子、二人きりの生活を象徴するような寂しい葬儀だった。
親族席には、学ラン姿の少年が一人座っている。
名前は桐生千尋。
故人桐生優子の一人息子だ。
遺影の中で笑っている女性と少年は、顔の輪郭がそっくりだ。
病室で取り乱した後、彼は落ち着いていて、三崎の指示に従い淡々と葬儀の準備をこなしていた。
遺影はどうするかと訊ねた三崎に、千尋はそっとその写真を差し出してきた。
中学の卒業式の帰り、近所の写真館で撮ったものだと言う。
椅子に座っ微笑む優子の斜め後ろに仏頂面をした千尋が立っている。
どこにでもありそうな親子の写真だった。
だがこの時、病魔は確実に優子の身体を蝕んでいて、なんとか医師から外泊許可をもぎ取り、優子は千尋の中学の卒業式に出席した。
しかし日に日に体力は弱まり、高校の入学式に優子が出席することはできなかった。
今千尋が着ているのはこの春入学したばかりの高校の制服だ。県内でもトップクラスの男子校で、千尋が懸命に勉強して合格したことを三崎は知っていた。
合格の知らせを持って千尋が優子の病室を訪れた時、三崎もその場にいた。
千尋の知らせを聞いて、優子は涙を流して喜んでいた。
三崎はそれを見て、病さえなければ、二人は肩を寄せ合いながら静かにそして幸せに暮らしていけたのだろうと思った。
だが優子を襲った病魔はそれを許さなかった。
もう戻れない親子二人の幸せな日々。千尋の差し出してきた写真こそが、その象徴であるかのように三崎には感じられた。
読経が終わり、僧侶が会場を後にする。司会の女性はマイクを口元に持っていき、一度会場を見回してから台に戻した。親族席に座る千尋の側まで行き、耳元でなにやらささやいた。
千尋は頷き席を立った。
それからはあっという間だった。
会場の脇に控えていた斎場スタッフはパイプ椅子を片付け、棺を小さな会場の中央に移動させた。祭壇の花を切り、漆塗りの盆に載せていく。その花を棺の中に入れ始めた。
千尋の隣に花を載せた盆を持ったスタッフが立った。何やら少し話し、千尋は頷き、花を一輪手に取った。
棺の横に立った千尋は、じっとその中を見つめる。
「花、入れないんですか?」
三崎は千尋の斜め後ろまで歩いて行き、声をかけた。
「入れるよ」
顔の横に花を入れ、もう一輪スタッフから受け取ったその時、
斎場の入り口が騒がしくなった。
大入道を連れた杖をついた小柄な老人が斎場に入ってきたところだった。
「――会長……」
老人の姿を認めて、三崎はつぶやいた。
「よっ」
大入道が手を上げて気安く挨拶した。
「アンタたち……」
千尋が呻くように言った。
「お前が千尋か。焼香しにきたんだが」
老人が言った。
「帰れよ‼︎」
少年はなおざりに花を棺に入れるとずかずかと大股で歩いて、老人の前まで行った。
「見舞いにだって一度も来なかったくせに、今更かよ」
千尋はどん、と老人の胸を叩く。
老人がよろめき後ろに倒れる。大入道がその身体を支えた。
「坊主」
大入道が叱責する声を出した。
「大塚」大入道が次の言葉を言うよりも早く、老人が口を開いた。「いいんだ」
「ですが……」
老人は体勢を整え、千尋と向かい合う。
「邪魔したな坊主。帰るぞ大塚」
老人が踵を返した。不服そうな顔をしながら大入道も続く。
千尋は会場を出て行く二人の背をずっと睨んでいた。
「千尋さん」
三崎は千尋のところまで歩いて行って、後ろから声をかけた。
「何? じいさんのことでアンタも何か言うの?」
険しい表情で千尋が振り返った。
三崎は右手の指先で腕時計を軽く叩いた。
「時間がありませんから」
雨で遅れた僧侶の到着に、全体的に時間が押していた。
千尋が前を向いた。
その視線の先には、
すっかり花のなくなった祭壇。
棺の方へ目をやれば、棺に花を入れるため棺の周りを慌ただしく動いていたスタッフはいなくなっている。
棺の周りは静けさに満ちていた。
千尋は棺の側まで歩いて行った。
千尋は棺の横に立って、中身をじっと見下ろしていた。
やがて司会の女性から一言あって、スタッフが棺の蓋を閉じた。