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第一章
1
天蓋付きの寝台の中でダナーン聖公国第一王女・クローディアが静かに寝息をたてて眠っている。枕に押し付けられた彼女の顔は見えない。クローディアの背を覆う緩やかに弧を描く亜麻色の髪は、枕元の横の背の低い卓子の上におかれた灯火に照らされつややかに光っていた。
寝台の横におかれた椅子に座り、シリアナは幼い子を寝付かせるようにクローディアの肩を叩いていた手をとめた。
「泣きつかれたのね」
シリアナはクローディアの肩の下まで下がってしまった上掛けを引き上げ、灯火を手にし立ち上がった。
露台へと続く窓辺へと歩みより、シリアナは深紅の天鵞絨の分厚い緞帳をかき分けわずかな隙間をつくり外を見た。
王城からは城下の街が見下ろせた。真っ暗な夜の底にぽつりぽつりと明かりが見える。常に比べ街に灯る明かりの数が少ない。それとは反対に城壁の外には無数の明かりが帯状に広がっていた。
ダルバード帝国軍がダナーン聖公国の王都・ダナティアの南に布陣したのが三日前。その半月ほど前、公国の交通の要所に配された軍を打ち破りながら進行するダルバード帝国軍の噂が城下に聞こえだすと、身分の貴賤を問わず人人はダナティアを捨てて逃げ出した。
今王都にいるのは逃げるすべのない老人や王都を守るために残った兵たちだけだ。
地母神ダナティアに仕える巫女であるクローディアは王都の南西にある神殿で暮らしていた。他から攻められることを前提としていない造りの神殿では守りが薄いからと、ダルバード帝国軍が王都に到着する前にクローディアは侍女は神官たちとともに王城へ身を寄せたが、クローディアに付き従ってきたほとんどの者たちは、ダルバード帝国軍が王都へやってくる前に逃げ出した。
侍女も満足にいない王宮。巫女の世話をするのにちょうど良い身分の者がいない。王都を守る異母兄に従い、王宮にとどまっていたシリアナにクローディアの世話は任された。
シリアナは緞帳を元に戻すと、振り返って寝台で眠るクローディアのことを見た。
「かわいそうに」
考えても仕方ないことが、もしダルバード帝国軍が攻めて来なければ。神に仕え祈りを捧げる。そんな巫女として安寧な日日を彼女は送れていただろう。
昼間クローディアにいつダルバード帝国軍は攻めてくるだろうかと問われた。ダルバード帝国軍が攻めてくるなら陽のあるうちだろう。夜襲ということも考えないではなかったが、眠れるなら眠った方がいい。そう思い、クローディアの問いにシリアナはそう答えていた。
シリアナの言葉にクローディアは、明るい間すべての物音におびえ、緊張した一日を過ごしていた。
夜になると張りつめた糸が切れるのだろう。クローディアは取り乱して泣いた。
シリアナには、それをなだめることしかできなかった。
籠城戦になったら、このか弱い姫君の心はいつまで持つのだろうか。
ここ数十年、戦を続け領土を拡大し続けてきたダルバード帝国軍と数百年の平和を享受していたダナーン聖公国では軍隊の力が圧倒的に違う。
負けの見えている戦だ。つらい籠戦になるくらいなら、ダルバード帝国軍に早く攻めてきて欲しいとシリアナは思った。
控えめに扉を叩く音がした。シリアナは歩いていき扉を開けた。
「シリアナ」
「お異母兄様」
扉の隙間から異母兄のフェルナンが顔をのぞかせる。
巫女の眠る部屋に男性を入れるわけにはいかない。灯火を手にシリアナは廊下に出た。
「どうされたのですか?」
異母兄は城壁の上の守りを任されていたはずだ。それが何故、王宮にいるのか。
「抜け出してきた」
シリアナの問いを読んだかのように異母兄は言って、普段と変わらぬ明るい笑顔を見せた。
「よろしいのですか。いつダルバード帝国軍が攻めてくるともわからないのに」
「城壁の上から見ていると奴らの動きがよくわかる。奴らは明日の朝攻めてくる」
「なぜそう思われるのですか」
「王都についてからの三日間、奴らは何をしていたと思う」
「王都攻めの準備でしょうか」
王都は石を積み上げて造った人の背丈の六倍はあろうかという厚く頑丈な城壁によって囲まれている。城壁の上は警備の兵が二人すれ違っても十分なほどな広さがあった。それを落とすにはそれなりの用意がいる。大型の攻城機は戦場についてから手に入る材料で組み立てるものだ。
「そうだ。奴らこの三日間で投石機や脚に車輪をつけた木製の攻城塔を組み立てていた。それが今日の夕方組み上がっていた」
「では夜襲ということもあり得るでしょう」
「それはない。夕餉の支度の煙があちこちから登っていたからな。夜襲を前に兵たちに悠長に炊事をさせる将はいない。普通は煮炊きの必要のない干し肉などを食べさせるものだ」
「私たちに夜襲を勘づかせないために、わざと炊事の煙を立ち上がらせたという可能性は?」
「それはないだろう。敵は十万、対して我らは三千。攻め入れば結果は見えている。奴らが策を用いる必要性がない」
「彼らはこの戦いに勝つ自信があるのですね」
「ああ。そして悔しいことだが、我らが公国の歴史は明日終わる」
「ええ」
今でも目をつむれば三年前のあの夜のことをまざまざと思い出すことができる。アルジ族に攻められ、バズド族が滅びた日のことを。
あの晩、生まれて初めての口づけを与えてくれたレザイルのぬくもりが残っているような気がして、シリアナは唇を触った。
「シリアナ」
異母兄に呼ばれ、いつの間にか閉じていた目を開ける。
「どうした?」
「いいえ」
シリアナは慌てて首を振り、シリン高原に住む人人の間に伝わる歌を思い出した。
――悲しみも喜びもすべては風に流そう
――死者の魂は女神に委ね
――今を言祝ごう
――それが我らのつとめ
――我らが使命
――今を喜び
――今を歌え
――幸いの風は常に我らともにあらん
一年中激しく風の吹き付ける牧草地帯を人人は部族ごとにまとまり、羊を飼い、遊牧をしながら暮らす。
痩せた土地での生活は厳しく、部族同士の小競り合いもしょっちゅうだ。失ったものを悲しんでいては前に進めない。
三年前のあの晩のことは忘れなければいけない。シリアナは服の下に隠した首飾りのオオカミの牙の飾りを触った。
「シリアナなぜ私がここに来たと思う」
「なぜですか」
異母兄を見上げてシリアナは問い返した。
「王宮には秘密の通路がある。それを使えば王都の外に逃げ延びられる。王家の一員である私には最期までこの国を守る義務がある。だがシリアナ、お前は王家の人間ではない。私は父上からお前のことを託された。私はお前を逃がすためにここへきた。さあシリアナ」
言ってフェルナンがシリアナの手を取ろうとした。シリアナは後ろに下がってそれを避けた。
「いいえ。たしかに私は王家の人間ではないかもしれません。ですが三年前、この国へ来た時からこの国の民として生きていく覚悟はできております。国王陛下の臣民として今の私に任されているのは巫女様を守ること。最期のその時まで私は巫女様のお側にお仕えするつもりです。ですからどうかお異母兄様、このままお戻りください」
嘘だ。三年前のあの時からシリアナの時は止まっている。レザイルの側にいけるのであれば、シリアナにとってそれは喜ばしいことに違いない。
そんな自分の気持ちをシリアナは異母兄には知られたくなくて、異母兄から顔を隠すため、シリアナは床に片膝をつくと灯火を下におき、異母兄の前に深く頭を垂れた。
「そうか」
異母兄の感極まった声が上から降ってくる。涙をこらえるかのように異母兄が鼻をすすった。
「兄が間違っていた。お前は確かに誇り高いダナーン聖公国の臣民だ。改めてシリアナ、兄からも巫女様のことを頼みたいと思う。あの方が蛮族に穢されることのないよう守ってくれ」
異母兄はしゃがみ込み、シリアナの両肩をしっかりとつかむと立ち上がらさせた。
「シリアナこれがお前との別れとなるだろう。たった二人の血を分けた兄妹だ。最後にお前の顔をよく見せて欲しい」
異母兄に言われ、シリアナはフェルナンの顔を見上げた。
「シリアナ、お前はよく父上に似ているな」
言ってフェルナンがシリアナの額に口づける。シリアナは異母兄の好きにさせた。その間ずっと、服の上から胸元にあるオオカミの牙の首飾りを触っていた。
「さあ、シリアナ、お前から兄に言うことはないのか」
――何も……
言いかけて、シリアナは自分が首飾りについたオオカミの牙を触っているのに気づいた。
「お異母兄様これを」
シリアナは自分の首から首飾りを外すと、異母兄の首にかけた。
「これは?」
異母兄は物珍しそうに、首飾りの真ん中ににぶら下がるオオカミの牙の飾りを見つめた。
「お守りです」
「そうか。すまないな」
「いいえ」
シリアナは首を振る。
――生きてくれ……
耳朶の奥に残るレザイルの言葉。やっとあの晩のレザイルとの約束から、自由になれた気がシリアナはした。
ダナーン聖公国の王都ダナティアの周囲を囲む城壁の上を、不寝番の兵が持つ松明の明かりがゆらゆらと移動している。
その様子を、自らの天幕の前に立ちダルバード帝国軍の総大将・ダルバード帝国第一皇子ジブリアンは見つめていた。
耳をすませば、陣営を吹きめぐる風の音が聞こえる。明日の城攻めに備え、兵たちは早めに休ませた。陣営は十万の兵がいるとは思えないほど静かだった。
視線を上に転じれば、新月の暗い夜空に満天の星が輝いていた。
――美しい……
幼い日に王宮を訪れた吟遊詩人から聴いた、瞬く星星の下で愛をささやく甘い男女の恋の詩をそらんじたくなる。
早く戦が終わればいい。そう思って瞳を閉じる。海に面したダルバードの帝都では感じることのない、砂埃をふくんだざらざらと乾いた風が頬をこする。その中に、戦場では嗅ぎなれた血腥いにおいを嗅いだ気がしてぶるりと体を震わせた。
「殿下」
呼ばれて目を開ける。
こちらにオードラン公爵・マリウスがやってくるところだった。マリウスは左手を掲げ、手にした酒瓶を振って見せる。
「兵士たちへの支給品をくすねてきました」
右目を素早くつむって、茶目っ気たっぷりにマリウスが言った。
「だが明日は攻城戦の開始日だ。その前日に酒を飲むわけにはいかない」
「だからですよ。真面目な殿下のことだ、城攻めを前にして眠れずにいるのではないかと存じましてね。上等な酒ではありませんが、酔うには十分でしょう。少し気分を楽にしてお休みになられた方がいい。さあ」
マリウスに促され、ジブリアンはマリウスとともに天幕の中に戻った。
マリウスは二つの硝子の杯を卓子の上におくと、持ってきた糖蜜でつくられた蒸留酒を注いだ。
卓子の上におかれた灯火の光をうけて、杯の中で琥珀色の酒がゆらゆらと輝いていた。
「どうぞ」
向かいに座ったマリウスはブリアンに杯を差し出す。受け取ったジブリアンは、卓子の上に杯をおくとそれを両手で包みこむようにした。
兵士たちへの支給品の酒は、飲んで酔えればいい。そんな廉価な代物だ。強い酒精のにおいが鼻につく。ジブリアンは顔をしかめた。
「殿下のお口には合わないかもしれませんが、こんなものでも兵士たちにとっては貴重品だ。五日に一度支給されるこれを、兵士たちがどんなに楽しみにしているかご存知ですか」
「ああ」
軽い軍紀違反を犯した者に、酒の支給を停止する懲罰もある。また酒の支給日には、風向きによってはジブリアンの天幕まで下級兵士たちの陽気な歌声が聞こえてくることもあった。
「さて、何に乾杯しましょうか。――そうだ、明日の我らがダルバード帝国軍祝って乾杯としましょうか」
「気が早いのではないか」
「よいでしょう。我らは十万、敵は三千。我らの勝ちは決まったようなものです」
マリウスが杯を持ち上げる。マリウスにつられ、ジブリアンはマリウスと杯をぶつけた。
マリウスが一気に杯の中身を飲み干し、二杯目を注いだ。
ジブリアンは一口だけ酒をふくんでみた。ほのかに甘い酒はべたべたと舌にからみつく。酒気が鼻から頭へとぬけ、それだけで酔いが体中に回りそうになる。
支給品の酒あまりのまずさに辟易しながら何とか飲み下し、杯を卓子の上においた。
「父上は何をお考えなのだろう」
ジブリアンは杯を握った手を見つめ、ずっと思っていたことをつぶやいた。
「ダナーンは小国だ。攻め滅ぼしたところで帝国に益はない。私は戦は嫌いだ。意味のない戦ならなおさらに」
「そう思われますか。私はそうは思いません」
「なぜだ」
マリウスの言葉にジブリアンは顔を上げた。
「理由は幾つかありますが、我が帝国の領土を拡大するのであれば、これ程に大事な土地はないでしょう」
「それは」
「まず一つ目」
言ってマリウスは自らの顔の前に指を一本立てた。
「我が軍にシラールの民が傭兵として多くいるのはご存じですね。彼等はシリン高原に住む遊牧民だ。牧草さえ満足に育たないような場所に暮らす彼等の生活は厳しい。彼等は少しでも優位な土地を得ようと部族間で争いを繰り返している。自らのモノは自らで守る。その為に彼等は幼い頃から戦士として徹底的に剣術・弓術・体術・馬術を叩きこまれる。それ故に彼等は強い。我が軍にいるシラールの民の殆どは部族間の争いに負け、奴隷として売られたり逃げてきたりした者たちばかりですが、シリン高原の支配権を持つダナーンを攻略すれば、我が帝国はシラールの民の全てを得ることができる。そして何より、シリン高原は良馬の産出地だ。シリン高原に生まれた馬の質が良いことはもちろんだが、遊牧と戦闘を繰り返してきたシラール達は良馬の育て方を心得ている。彼等を手に入れることで私達は騎兵を強化することができる。彼等の技術には価値があります。ダナーンの領地を与えると言えば、彼等は帝国に恭順の意を示す部族も多くいるでしょう」
「なぜだ」
「ダナーン聖公国の土地は元元彼等のものでした。それを南部の森林地帯からやってきたダナーン族が、武力で取り上げた。北部に追われた彼等はシリン高原で遊牧生活をすることを選びました。独立独歩の気質を持つ彼等は部族同士で協力しダナーンを攻めることこそないものの、ダナーンの領土目指して南下するシラールの民とダナーン軍との小競り合いなど常のことです。郷愁の念とダナーン聖公国内を流れるマズリー河沿いに広がる肥沃な農耕地帯への憧れ。彼等とってこの地は魅力的です。領土を約束すれば、孤高の民といわれる彼等の中にも喜んで我が帝国に下る者たちがいるでしょう。そして二つ目」
マリウスが二本目の指を立てた。
「ダナーン聖公国の西にはファズム王国が広がっている」
「――ファズム王国……、だがあの国は……」
禍禍しい響きに、ジブリアンはまずい酒を一口飲んだ。
「吟遊詩人などは、悪霊の跋扈したる国など唄いますがね、そんなもの迷信です。確かに彼の国には我らに理解できない風習も多いでしょう。ですがね、国王を祭司として頂点に据えた単なる祭祀国家にすぎません。国が違えば信じるものも違う。それが我等の生活とかけ離れているから、理解できずに恐れるだけで、それを面白おかしく話して儲けるのが吟遊詩人たちの仕事ですからね。彼等の話しに嘘はないが、それを真実だと信じるのは早計すぎる。彼の国で産出される鉄は我が帝国の軍備を拡張するために役立つ。ファズムに進攻するためにも、我が帝国とファズムの間に広がるこの土地を手に入れることは重要なのですよ」
「だが私は戦は嫌いだ。むろん幼い頃は王宮を訪れる吟遊詩人たちが唄う英雄譚に胸を熱くし、自らも彼等に唄われ人人の記憶に残るような英雄になりたいと願ったこともあった。だが現実はどうだ? 戦など野蛮なだけだ。大地に流された血の、むせかえるようなあのにおい。斬り捨てられたままとなった死体から漂う腐臭。兵士たちの断末魔の叫び。兵士に犯され泣き叫ぶ女子どもたちの声。奪略に喜ぶ兵士たちの下卑た笑い声。私はもう何も見たくも聴きたくもない」
言ってジブリアンは両手で顔を覆った。
「とは言え貴方は勅命をいただいた。総大将としてダナーン聖公国を攻め滅ぼすとね。陛下は自らの息子であろうと容赦がない。この戦に失敗すれば貴方に罰をくだされるでしょうね」
「そうだ、退くも進むも私にとっては地獄だ。皇太子の地位などいらない。私はただ、過去の偉大な文人たちの記した物語や叙事詩、哲学に親しむ穏やかな生活がしたいだけなんだ」
両肘を卓子について、ジブリアンは嗚咽を漏らした。
「存じていますよ。貴方のお心は」
ジブリアンは指を開いて、その間からマリウスのことを見た。
マリウスと目が合う。マリウスはシブリアンに笑いかけ、二杯目の酒を煽った。
「だから私がここにいるのです。私は貴方の姉上から貴方のことを頼まれた。貴方のことを絶対に勝たせてみせます。だから明日のことは考えず、安心してお休みください」
「ああ」
ジブリアンは頷いた。
「酒はここにおいて行きます。もし眠れないようでしたらお召し上がりください。くれぐれも深酒には気をつけて」
マリウスが天幕を出て行った。
天蓋付きの寝台の中でダナーン聖公国第一王女・クローディアが静かに寝息をたてて眠っている。枕に押し付けられた彼女の顔は見えない。クローディアの背を覆う緩やかに弧を描く亜麻色の髪は、枕元の横の背の低い卓子の上におかれた灯火に照らされつややかに光っていた。
寝台の横におかれた椅子に座り、シリアナは幼い子を寝付かせるようにクローディアの肩を叩いていた手をとめた。
「泣きつかれたのね」
シリアナはクローディアの肩の下まで下がってしまった上掛けを引き上げ、灯火を手にし立ち上がった。
露台へと続く窓辺へと歩みより、シリアナは深紅の天鵞絨の分厚い緞帳をかき分けわずかな隙間をつくり外を見た。
王城からは城下の街が見下ろせた。真っ暗な夜の底にぽつりぽつりと明かりが見える。常に比べ街に灯る明かりの数が少ない。それとは反対に城壁の外には無数の明かりが帯状に広がっていた。
ダルバード帝国軍がダナーン聖公国の王都・ダナティアの南に布陣したのが三日前。その半月ほど前、公国の交通の要所に配された軍を打ち破りながら進行するダルバード帝国軍の噂が城下に聞こえだすと、身分の貴賤を問わず人人はダナティアを捨てて逃げ出した。
今王都にいるのは逃げるすべのない老人や王都を守るために残った兵たちだけだ。
地母神ダナティアに仕える巫女であるクローディアは王都の南西にある神殿で暮らしていた。他から攻められることを前提としていない造りの神殿では守りが薄いからと、ダルバード帝国軍が王都に到着する前にクローディアは侍女は神官たちとともに王城へ身を寄せたが、クローディアに付き従ってきたほとんどの者たちは、ダルバード帝国軍が王都へやってくる前に逃げ出した。
侍女も満足にいない王宮。巫女の世話をするのにちょうど良い身分の者がいない。王都を守る異母兄に従い、王宮にとどまっていたシリアナにクローディアの世話は任された。
シリアナは緞帳を元に戻すと、振り返って寝台で眠るクローディアのことを見た。
「かわいそうに」
考えても仕方ないことが、もしダルバード帝国軍が攻めて来なければ。神に仕え祈りを捧げる。そんな巫女として安寧な日日を彼女は送れていただろう。
昼間クローディアにいつダルバード帝国軍は攻めてくるだろうかと問われた。ダルバード帝国軍が攻めてくるなら陽のあるうちだろう。夜襲ということも考えないではなかったが、眠れるなら眠った方がいい。そう思い、クローディアの問いにシリアナはそう答えていた。
シリアナの言葉にクローディアは、明るい間すべての物音におびえ、緊張した一日を過ごしていた。
夜になると張りつめた糸が切れるのだろう。クローディアは取り乱して泣いた。
シリアナには、それをなだめることしかできなかった。
籠城戦になったら、このか弱い姫君の心はいつまで持つのだろうか。
ここ数十年、戦を続け領土を拡大し続けてきたダルバード帝国軍と数百年の平和を享受していたダナーン聖公国では軍隊の力が圧倒的に違う。
負けの見えている戦だ。つらい籠戦になるくらいなら、ダルバード帝国軍に早く攻めてきて欲しいとシリアナは思った。
控えめに扉を叩く音がした。シリアナは歩いていき扉を開けた。
「シリアナ」
「お異母兄様」
扉の隙間から異母兄のフェルナンが顔をのぞかせる。
巫女の眠る部屋に男性を入れるわけにはいかない。灯火を手にシリアナは廊下に出た。
「どうされたのですか?」
異母兄は城壁の上の守りを任されていたはずだ。それが何故、王宮にいるのか。
「抜け出してきた」
シリアナの問いを読んだかのように異母兄は言って、普段と変わらぬ明るい笑顔を見せた。
「よろしいのですか。いつダルバード帝国軍が攻めてくるともわからないのに」
「城壁の上から見ていると奴らの動きがよくわかる。奴らは明日の朝攻めてくる」
「なぜそう思われるのですか」
「王都についてからの三日間、奴らは何をしていたと思う」
「王都攻めの準備でしょうか」
王都は石を積み上げて造った人の背丈の六倍はあろうかという厚く頑丈な城壁によって囲まれている。城壁の上は警備の兵が二人すれ違っても十分なほどな広さがあった。それを落とすにはそれなりの用意がいる。大型の攻城機は戦場についてから手に入る材料で組み立てるものだ。
「そうだ。奴らこの三日間で投石機や脚に車輪をつけた木製の攻城塔を組み立てていた。それが今日の夕方組み上がっていた」
「では夜襲ということもあり得るでしょう」
「それはない。夕餉の支度の煙があちこちから登っていたからな。夜襲を前に兵たちに悠長に炊事をさせる将はいない。普通は煮炊きの必要のない干し肉などを食べさせるものだ」
「私たちに夜襲を勘づかせないために、わざと炊事の煙を立ち上がらせたという可能性は?」
「それはないだろう。敵は十万、対して我らは三千。攻め入れば結果は見えている。奴らが策を用いる必要性がない」
「彼らはこの戦いに勝つ自信があるのですね」
「ああ。そして悔しいことだが、我らが公国の歴史は明日終わる」
「ええ」
今でも目をつむれば三年前のあの夜のことをまざまざと思い出すことができる。アルジ族に攻められ、バズド族が滅びた日のことを。
あの晩、生まれて初めての口づけを与えてくれたレザイルのぬくもりが残っているような気がして、シリアナは唇を触った。
「シリアナ」
異母兄に呼ばれ、いつの間にか閉じていた目を開ける。
「どうした?」
「いいえ」
シリアナは慌てて首を振り、シリン高原に住む人人の間に伝わる歌を思い出した。
――悲しみも喜びもすべては風に流そう
――死者の魂は女神に委ね
――今を言祝ごう
――それが我らのつとめ
――我らが使命
――今を喜び
――今を歌え
――幸いの風は常に我らともにあらん
一年中激しく風の吹き付ける牧草地帯を人人は部族ごとにまとまり、羊を飼い、遊牧をしながら暮らす。
痩せた土地での生活は厳しく、部族同士の小競り合いもしょっちゅうだ。失ったものを悲しんでいては前に進めない。
三年前のあの晩のことは忘れなければいけない。シリアナは服の下に隠した首飾りのオオカミの牙の飾りを触った。
「シリアナなぜ私がここに来たと思う」
「なぜですか」
異母兄を見上げてシリアナは問い返した。
「王宮には秘密の通路がある。それを使えば王都の外に逃げ延びられる。王家の一員である私には最期までこの国を守る義務がある。だがシリアナ、お前は王家の人間ではない。私は父上からお前のことを託された。私はお前を逃がすためにここへきた。さあシリアナ」
言ってフェルナンがシリアナの手を取ろうとした。シリアナは後ろに下がってそれを避けた。
「いいえ。たしかに私は王家の人間ではないかもしれません。ですが三年前、この国へ来た時からこの国の民として生きていく覚悟はできております。国王陛下の臣民として今の私に任されているのは巫女様を守ること。最期のその時まで私は巫女様のお側にお仕えするつもりです。ですからどうかお異母兄様、このままお戻りください」
嘘だ。三年前のあの時からシリアナの時は止まっている。レザイルの側にいけるのであれば、シリアナにとってそれは喜ばしいことに違いない。
そんな自分の気持ちをシリアナは異母兄には知られたくなくて、異母兄から顔を隠すため、シリアナは床に片膝をつくと灯火を下におき、異母兄の前に深く頭を垂れた。
「そうか」
異母兄の感極まった声が上から降ってくる。涙をこらえるかのように異母兄が鼻をすすった。
「兄が間違っていた。お前は確かに誇り高いダナーン聖公国の臣民だ。改めてシリアナ、兄からも巫女様のことを頼みたいと思う。あの方が蛮族に穢されることのないよう守ってくれ」
異母兄はしゃがみ込み、シリアナの両肩をしっかりとつかむと立ち上がらさせた。
「シリアナこれがお前との別れとなるだろう。たった二人の血を分けた兄妹だ。最後にお前の顔をよく見せて欲しい」
異母兄に言われ、シリアナはフェルナンの顔を見上げた。
「シリアナ、お前はよく父上に似ているな」
言ってフェルナンがシリアナの額に口づける。シリアナは異母兄の好きにさせた。その間ずっと、服の上から胸元にあるオオカミの牙の首飾りを触っていた。
「さあ、シリアナ、お前から兄に言うことはないのか」
――何も……
言いかけて、シリアナは自分が首飾りについたオオカミの牙を触っているのに気づいた。
「お異母兄様これを」
シリアナは自分の首から首飾りを外すと、異母兄の首にかけた。
「これは?」
異母兄は物珍しそうに、首飾りの真ん中ににぶら下がるオオカミの牙の飾りを見つめた。
「お守りです」
「そうか。すまないな」
「いいえ」
シリアナは首を振る。
――生きてくれ……
耳朶の奥に残るレザイルの言葉。やっとあの晩のレザイルとの約束から、自由になれた気がシリアナはした。
ダナーン聖公国の王都ダナティアの周囲を囲む城壁の上を、不寝番の兵が持つ松明の明かりがゆらゆらと移動している。
その様子を、自らの天幕の前に立ちダルバード帝国軍の総大将・ダルバード帝国第一皇子ジブリアンは見つめていた。
耳をすませば、陣営を吹きめぐる風の音が聞こえる。明日の城攻めに備え、兵たちは早めに休ませた。陣営は十万の兵がいるとは思えないほど静かだった。
視線を上に転じれば、新月の暗い夜空に満天の星が輝いていた。
――美しい……
幼い日に王宮を訪れた吟遊詩人から聴いた、瞬く星星の下で愛をささやく甘い男女の恋の詩をそらんじたくなる。
早く戦が終わればいい。そう思って瞳を閉じる。海に面したダルバードの帝都では感じることのない、砂埃をふくんだざらざらと乾いた風が頬をこする。その中に、戦場では嗅ぎなれた血腥いにおいを嗅いだ気がしてぶるりと体を震わせた。
「殿下」
呼ばれて目を開ける。
こちらにオードラン公爵・マリウスがやってくるところだった。マリウスは左手を掲げ、手にした酒瓶を振って見せる。
「兵士たちへの支給品をくすねてきました」
右目を素早くつむって、茶目っ気たっぷりにマリウスが言った。
「だが明日は攻城戦の開始日だ。その前日に酒を飲むわけにはいかない」
「だからですよ。真面目な殿下のことだ、城攻めを前にして眠れずにいるのではないかと存じましてね。上等な酒ではありませんが、酔うには十分でしょう。少し気分を楽にしてお休みになられた方がいい。さあ」
マリウスに促され、ジブリアンはマリウスとともに天幕の中に戻った。
マリウスは二つの硝子の杯を卓子の上におくと、持ってきた糖蜜でつくられた蒸留酒を注いだ。
卓子の上におかれた灯火の光をうけて、杯の中で琥珀色の酒がゆらゆらと輝いていた。
「どうぞ」
向かいに座ったマリウスはブリアンに杯を差し出す。受け取ったジブリアンは、卓子の上に杯をおくとそれを両手で包みこむようにした。
兵士たちへの支給品の酒は、飲んで酔えればいい。そんな廉価な代物だ。強い酒精のにおいが鼻につく。ジブリアンは顔をしかめた。
「殿下のお口には合わないかもしれませんが、こんなものでも兵士たちにとっては貴重品だ。五日に一度支給されるこれを、兵士たちがどんなに楽しみにしているかご存知ですか」
「ああ」
軽い軍紀違反を犯した者に、酒の支給を停止する懲罰もある。また酒の支給日には、風向きによってはジブリアンの天幕まで下級兵士たちの陽気な歌声が聞こえてくることもあった。
「さて、何に乾杯しましょうか。――そうだ、明日の我らがダルバード帝国軍祝って乾杯としましょうか」
「気が早いのではないか」
「よいでしょう。我らは十万、敵は三千。我らの勝ちは決まったようなものです」
マリウスが杯を持ち上げる。マリウスにつられ、ジブリアンはマリウスと杯をぶつけた。
マリウスが一気に杯の中身を飲み干し、二杯目を注いだ。
ジブリアンは一口だけ酒をふくんでみた。ほのかに甘い酒はべたべたと舌にからみつく。酒気が鼻から頭へとぬけ、それだけで酔いが体中に回りそうになる。
支給品の酒あまりのまずさに辟易しながら何とか飲み下し、杯を卓子の上においた。
「父上は何をお考えなのだろう」
ジブリアンは杯を握った手を見つめ、ずっと思っていたことをつぶやいた。
「ダナーンは小国だ。攻め滅ぼしたところで帝国に益はない。私は戦は嫌いだ。意味のない戦ならなおさらに」
「そう思われますか。私はそうは思いません」
「なぜだ」
マリウスの言葉にジブリアンは顔を上げた。
「理由は幾つかありますが、我が帝国の領土を拡大するのであれば、これ程に大事な土地はないでしょう」
「それは」
「まず一つ目」
言ってマリウスは自らの顔の前に指を一本立てた。
「我が軍にシラールの民が傭兵として多くいるのはご存じですね。彼等はシリン高原に住む遊牧民だ。牧草さえ満足に育たないような場所に暮らす彼等の生活は厳しい。彼等は少しでも優位な土地を得ようと部族間で争いを繰り返している。自らのモノは自らで守る。その為に彼等は幼い頃から戦士として徹底的に剣術・弓術・体術・馬術を叩きこまれる。それ故に彼等は強い。我が軍にいるシラールの民の殆どは部族間の争いに負け、奴隷として売られたり逃げてきたりした者たちばかりですが、シリン高原の支配権を持つダナーンを攻略すれば、我が帝国はシラールの民の全てを得ることができる。そして何より、シリン高原は良馬の産出地だ。シリン高原に生まれた馬の質が良いことはもちろんだが、遊牧と戦闘を繰り返してきたシラール達は良馬の育て方を心得ている。彼等を手に入れることで私達は騎兵を強化することができる。彼等の技術には価値があります。ダナーンの領地を与えると言えば、彼等は帝国に恭順の意を示す部族も多くいるでしょう」
「なぜだ」
「ダナーン聖公国の土地は元元彼等のものでした。それを南部の森林地帯からやってきたダナーン族が、武力で取り上げた。北部に追われた彼等はシリン高原で遊牧生活をすることを選びました。独立独歩の気質を持つ彼等は部族同士で協力しダナーンを攻めることこそないものの、ダナーンの領土目指して南下するシラールの民とダナーン軍との小競り合いなど常のことです。郷愁の念とダナーン聖公国内を流れるマズリー河沿いに広がる肥沃な農耕地帯への憧れ。彼等とってこの地は魅力的です。領土を約束すれば、孤高の民といわれる彼等の中にも喜んで我が帝国に下る者たちがいるでしょう。そして二つ目」
マリウスが二本目の指を立てた。
「ダナーン聖公国の西にはファズム王国が広がっている」
「――ファズム王国……、だがあの国は……」
禍禍しい響きに、ジブリアンはまずい酒を一口飲んだ。
「吟遊詩人などは、悪霊の跋扈したる国など唄いますがね、そんなもの迷信です。確かに彼の国には我らに理解できない風習も多いでしょう。ですがね、国王を祭司として頂点に据えた単なる祭祀国家にすぎません。国が違えば信じるものも違う。それが我等の生活とかけ離れているから、理解できずに恐れるだけで、それを面白おかしく話して儲けるのが吟遊詩人たちの仕事ですからね。彼等の話しに嘘はないが、それを真実だと信じるのは早計すぎる。彼の国で産出される鉄は我が帝国の軍備を拡張するために役立つ。ファズムに進攻するためにも、我が帝国とファズムの間に広がるこの土地を手に入れることは重要なのですよ」
「だが私は戦は嫌いだ。むろん幼い頃は王宮を訪れる吟遊詩人たちが唄う英雄譚に胸を熱くし、自らも彼等に唄われ人人の記憶に残るような英雄になりたいと願ったこともあった。だが現実はどうだ? 戦など野蛮なだけだ。大地に流された血の、むせかえるようなあのにおい。斬り捨てられたままとなった死体から漂う腐臭。兵士たちの断末魔の叫び。兵士に犯され泣き叫ぶ女子どもたちの声。奪略に喜ぶ兵士たちの下卑た笑い声。私はもう何も見たくも聴きたくもない」
言ってジブリアンは両手で顔を覆った。
「とは言え貴方は勅命をいただいた。総大将としてダナーン聖公国を攻め滅ぼすとね。陛下は自らの息子であろうと容赦がない。この戦に失敗すれば貴方に罰をくだされるでしょうね」
「そうだ、退くも進むも私にとっては地獄だ。皇太子の地位などいらない。私はただ、過去の偉大な文人たちの記した物語や叙事詩、哲学に親しむ穏やかな生活がしたいだけなんだ」
両肘を卓子について、ジブリアンは嗚咽を漏らした。
「存じていますよ。貴方のお心は」
ジブリアンは指を開いて、その間からマリウスのことを見た。
マリウスと目が合う。マリウスはシブリアンに笑いかけ、二杯目の酒を煽った。
「だから私がここにいるのです。私は貴方の姉上から貴方のことを頼まれた。貴方のことを絶対に勝たせてみせます。だから明日のことは考えず、安心してお休みください」
「ああ」
ジブリアンは頷いた。
「酒はここにおいて行きます。もし眠れないようでしたらお召し上がりください。くれぐれも深酒には気をつけて」
マリウスが天幕を出て行った。
寝台の横におかれた椅子に座り、シリアナは幼い子を寝付かせるようにクローディアの肩を叩いていた手をとめた。
「泣きつかれたのね」
シリアナはクローディアの肩の下まで下がってしまった上掛けを引き上げ、灯火を手にし立ち上がった。
露台へと続く窓辺へと歩みより、シリアナは深紅の天鵞絨の分厚い緞帳をかき分けわずかな隙間をつくり外を見た。
王城からは城下の街が見下ろせた。真っ暗な夜の底にぽつりぽつりと明かりが見える。常に比べ街に灯る明かりの数が少ない。それとは反対に城壁の外には無数の明かりが帯状に広がっていた。
ダルバード帝国軍がダナーン聖公国の王都・ダナティアの南に布陣したのが三日前。その半月ほど前、公国の交通の要所に配された軍を打ち破りながら進行するダルバード帝国軍の噂が城下に聞こえだすと、身分の貴賤を問わず人人はダナティアを捨てて逃げ出した。
今王都にいるのは逃げるすべのない老人や王都を守るために残った兵たちだけだ。
地母神ダナティアに仕える巫女であるクローディアは王都の南西にある神殿で暮らしていた。他から攻められることを前提としていない造りの神殿では守りが薄いからと、ダルバード帝国軍が王都に到着する前にクローディアは侍女は神官たちとともに王城へ身を寄せたが、クローディアに付き従ってきたほとんどの者たちは、ダルバード帝国軍が王都へやってくる前に逃げ出した。
侍女も満足にいない王宮。巫女の世話をするのにちょうど良い身分の者がいない。王都を守る異母兄に従い、王宮にとどまっていたシリアナにクローディアの世話は任された。
シリアナは緞帳を元に戻すと、振り返って寝台で眠るクローディアのことを見た。
「かわいそうに」
考えても仕方ないことが、もしダルバード帝国軍が攻めて来なければ。神に仕え祈りを捧げる。そんな巫女として安寧な日日を彼女は送れていただろう。
昼間クローディアにいつダルバード帝国軍は攻めてくるだろうかと問われた。ダルバード帝国軍が攻めてくるなら陽のあるうちだろう。夜襲ということも考えないではなかったが、眠れるなら眠った方がいい。そう思い、クローディアの問いにシリアナはそう答えていた。
シリアナの言葉にクローディアは、明るい間すべての物音におびえ、緊張した一日を過ごしていた。
夜になると張りつめた糸が切れるのだろう。クローディアは取り乱して泣いた。
シリアナには、それをなだめることしかできなかった。
籠城戦になったら、このか弱い姫君の心はいつまで持つのだろうか。
ここ数十年、戦を続け領土を拡大し続けてきたダルバード帝国軍と数百年の平和を享受していたダナーン聖公国では軍隊の力が圧倒的に違う。
負けの見えている戦だ。つらい籠戦になるくらいなら、ダルバード帝国軍に早く攻めてきて欲しいとシリアナは思った。
控えめに扉を叩く音がした。シリアナは歩いていき扉を開けた。
「シリアナ」
「お異母兄様」
扉の隙間から異母兄のフェルナンが顔をのぞかせる。
巫女の眠る部屋に男性を入れるわけにはいかない。灯火を手にシリアナは廊下に出た。
「どうされたのですか?」
異母兄は城壁の上の守りを任されていたはずだ。それが何故、王宮にいるのか。
「抜け出してきた」
シリアナの問いを読んだかのように異母兄は言って、普段と変わらぬ明るい笑顔を見せた。
「よろしいのですか。いつダルバード帝国軍が攻めてくるともわからないのに」
「城壁の上から見ていると奴らの動きがよくわかる。奴らは明日の朝攻めてくる」
「なぜそう思われるのですか」
「王都についてからの三日間、奴らは何をしていたと思う」
「王都攻めの準備でしょうか」
王都は石を積み上げて造った人の背丈の六倍はあろうかという厚く頑丈な城壁によって囲まれている。城壁の上は警備の兵が二人すれ違っても十分なほどな広さがあった。それを落とすにはそれなりの用意がいる。大型の攻城機は戦場についてから手に入る材料で組み立てるものだ。
「そうだ。奴らこの三日間で投石機や脚に車輪をつけた木製の攻城塔を組み立てていた。それが今日の夕方組み上がっていた」
「では夜襲ということもあり得るでしょう」
「それはない。夕餉の支度の煙があちこちから登っていたからな。夜襲を前に兵たちに悠長に炊事をさせる将はいない。普通は煮炊きの必要のない干し肉などを食べさせるものだ」
「私たちに夜襲を勘づかせないために、わざと炊事の煙を立ち上がらせたという可能性は?」
「それはないだろう。敵は十万、対して我らは三千。攻め入れば結果は見えている。奴らが策を用いる必要性がない」
「彼らはこの戦いに勝つ自信があるのですね」
「ああ。そして悔しいことだが、我らが公国の歴史は明日終わる」
「ええ」
今でも目をつむれば三年前のあの夜のことをまざまざと思い出すことができる。アルジ族に攻められ、バズド族が滅びた日のことを。
あの晩、生まれて初めての口づけを与えてくれたレザイルのぬくもりが残っているような気がして、シリアナは唇を触った。
「シリアナ」
異母兄に呼ばれ、いつの間にか閉じていた目を開ける。
「どうした?」
「いいえ」
シリアナは慌てて首を振り、シリン高原に住む人人の間に伝わる歌を思い出した。
――悲しみも喜びもすべては風に流そう
――死者の魂は女神に委ね
――今を言祝ごう
――それが我らのつとめ
――我らが使命
――今を喜び
――今を歌え
――幸いの風は常に我らともにあらん
一年中激しく風の吹き付ける牧草地帯を人人は部族ごとにまとまり、羊を飼い、遊牧をしながら暮らす。
痩せた土地での生活は厳しく、部族同士の小競り合いもしょっちゅうだ。失ったものを悲しんでいては前に進めない。
三年前のあの晩のことは忘れなければいけない。シリアナは服の下に隠した首飾りのオオカミの牙の飾りを触った。
「シリアナなぜ私がここに来たと思う」
「なぜですか」
異母兄を見上げてシリアナは問い返した。
「王宮には秘密の通路がある。それを使えば王都の外に逃げ延びられる。王家の一員である私には最期までこの国を守る義務がある。だがシリアナ、お前は王家の人間ではない。私は父上からお前のことを託された。私はお前を逃がすためにここへきた。さあシリアナ」
言ってフェルナンがシリアナの手を取ろうとした。シリアナは後ろに下がってそれを避けた。
「いいえ。たしかに私は王家の人間ではないかもしれません。ですが三年前、この国へ来た時からこの国の民として生きていく覚悟はできております。国王陛下の臣民として今の私に任されているのは巫女様を守ること。最期のその時まで私は巫女様のお側にお仕えするつもりです。ですからどうかお異母兄様、このままお戻りください」
嘘だ。三年前のあの時からシリアナの時は止まっている。レザイルの側にいけるのであれば、シリアナにとってそれは喜ばしいことに違いない。
そんな自分の気持ちをシリアナは異母兄には知られたくなくて、異母兄から顔を隠すため、シリアナは床に片膝をつくと灯火を下におき、異母兄の前に深く頭を垂れた。
「そうか」
異母兄の感極まった声が上から降ってくる。涙をこらえるかのように異母兄が鼻をすすった。
「兄が間違っていた。お前は確かに誇り高いダナーン聖公国の臣民だ。改めてシリアナ、兄からも巫女様のことを頼みたいと思う。あの方が蛮族に穢されることのないよう守ってくれ」
異母兄はしゃがみ込み、シリアナの両肩をしっかりとつかむと立ち上がらさせた。
「シリアナこれがお前との別れとなるだろう。たった二人の血を分けた兄妹だ。最後にお前の顔をよく見せて欲しい」
異母兄に言われ、シリアナはフェルナンの顔を見上げた。
「シリアナ、お前はよく父上に似ているな」
言ってフェルナンがシリアナの額に口づける。シリアナは異母兄の好きにさせた。その間ずっと、服の上から胸元にあるオオカミの牙の首飾りを触っていた。
「さあ、シリアナ、お前から兄に言うことはないのか」
――何も……
言いかけて、シリアナは自分が首飾りについたオオカミの牙を触っているのに気づいた。
「お異母兄様これを」
シリアナは自分の首から首飾りを外すと、異母兄の首にかけた。
「これは?」
異母兄は物珍しそうに、首飾りの真ん中ににぶら下がるオオカミの牙の飾りを見つめた。
「お守りです」
「そうか。すまないな」
「いいえ」
シリアナは首を振る。
――生きてくれ……
耳朶の奥に残るレザイルの言葉。やっとあの晩のレザイルとの約束から、自由になれた気がシリアナはした。
ダナーン聖公国の王都ダナティアの周囲を囲む城壁の上を、不寝番の兵が持つ松明の明かりがゆらゆらと移動している。
その様子を、自らの天幕の前に立ちダルバード帝国軍の総大将・ダルバード帝国第一皇子ジブリアンは見つめていた。
耳をすませば、陣営を吹きめぐる風の音が聞こえる。明日の城攻めに備え、兵たちは早めに休ませた。陣営は十万の兵がいるとは思えないほど静かだった。
視線を上に転じれば、新月の暗い夜空に満天の星が輝いていた。
――美しい……
幼い日に王宮を訪れた吟遊詩人から聴いた、瞬く星星の下で愛をささやく甘い男女の恋の詩をそらんじたくなる。
早く戦が終わればいい。そう思って瞳を閉じる。海に面したダルバードの帝都では感じることのない、砂埃をふくんだざらざらと乾いた風が頬をこする。その中に、戦場では嗅ぎなれた血腥いにおいを嗅いだ気がしてぶるりと体を震わせた。
「殿下」
呼ばれて目を開ける。
こちらにオードラン公爵・マリウスがやってくるところだった。マリウスは左手を掲げ、手にした酒瓶を振って見せる。
「兵士たちへの支給品をくすねてきました」
右目を素早くつむって、茶目っ気たっぷりにマリウスが言った。
「だが明日は攻城戦の開始日だ。その前日に酒を飲むわけにはいかない」
「だからですよ。真面目な殿下のことだ、城攻めを前にして眠れずにいるのではないかと存じましてね。上等な酒ではありませんが、酔うには十分でしょう。少し気分を楽にしてお休みになられた方がいい。さあ」
マリウスに促され、ジブリアンはマリウスとともに天幕の中に戻った。
マリウスは二つの硝子の杯を卓子の上におくと、持ってきた糖蜜でつくられた蒸留酒を注いだ。
卓子の上におかれた灯火の光をうけて、杯の中で琥珀色の酒がゆらゆらと輝いていた。
「どうぞ」
向かいに座ったマリウスはブリアンに杯を差し出す。受け取ったジブリアンは、卓子の上に杯をおくとそれを両手で包みこむようにした。
兵士たちへの支給品の酒は、飲んで酔えればいい。そんな廉価な代物だ。強い酒精のにおいが鼻につく。ジブリアンは顔をしかめた。
「殿下のお口には合わないかもしれませんが、こんなものでも兵士たちにとっては貴重品だ。五日に一度支給されるこれを、兵士たちがどんなに楽しみにしているかご存知ですか」
「ああ」
軽い軍紀違反を犯した者に、酒の支給を停止する懲罰もある。また酒の支給日には、風向きによってはジブリアンの天幕まで下級兵士たちの陽気な歌声が聞こえてくることもあった。
「さて、何に乾杯しましょうか。――そうだ、明日の我らがダルバード帝国軍祝って乾杯としましょうか」
「気が早いのではないか」
「よいでしょう。我らは十万、敵は三千。我らの勝ちは決まったようなものです」
マリウスが杯を持ち上げる。マリウスにつられ、ジブリアンはマリウスと杯をぶつけた。
マリウスが一気に杯の中身を飲み干し、二杯目を注いだ。
ジブリアンは一口だけ酒をふくんでみた。ほのかに甘い酒はべたべたと舌にからみつく。酒気が鼻から頭へとぬけ、それだけで酔いが体中に回りそうになる。
支給品の酒あまりのまずさに辟易しながら何とか飲み下し、杯を卓子の上においた。
「父上は何をお考えなのだろう」
ジブリアンは杯を握った手を見つめ、ずっと思っていたことをつぶやいた。
「ダナーンは小国だ。攻め滅ぼしたところで帝国に益はない。私は戦は嫌いだ。意味のない戦ならなおさらに」
「そう思われますか。私はそうは思いません」
「なぜだ」
マリウスの言葉にジブリアンは顔を上げた。
「理由は幾つかありますが、我が帝国の領土を拡大するのであれば、これ程に大事な土地はないでしょう」
「それは」
「まず一つ目」
言ってマリウスは自らの顔の前に指を一本立てた。
「我が軍にシラールの民が傭兵として多くいるのはご存じですね。彼等はシリン高原に住む遊牧民だ。牧草さえ満足に育たないような場所に暮らす彼等の生活は厳しい。彼等は少しでも優位な土地を得ようと部族間で争いを繰り返している。自らのモノは自らで守る。その為に彼等は幼い頃から戦士として徹底的に剣術・弓術・体術・馬術を叩きこまれる。それ故に彼等は強い。我が軍にいるシラールの民の殆どは部族間の争いに負け、奴隷として売られたり逃げてきたりした者たちばかりですが、シリン高原の支配権を持つダナーンを攻略すれば、我が帝国はシラールの民の全てを得ることができる。そして何より、シリン高原は良馬の産出地だ。シリン高原に生まれた馬の質が良いことはもちろんだが、遊牧と戦闘を繰り返してきたシラール達は良馬の育て方を心得ている。彼等を手に入れることで私達は騎兵を強化することができる。彼等の技術には価値があります。ダナーンの領地を与えると言えば、彼等は帝国に恭順の意を示す部族も多くいるでしょう」
「なぜだ」
「ダナーン聖公国の土地は元元彼等のものでした。それを南部の森林地帯からやってきたダナーン族が、武力で取り上げた。北部に追われた彼等はシリン高原で遊牧生活をすることを選びました。独立独歩の気質を持つ彼等は部族同士で協力しダナーンを攻めることこそないものの、ダナーンの領土目指して南下するシラールの民とダナーン軍との小競り合いなど常のことです。郷愁の念とダナーン聖公国内を流れるマズリー河沿いに広がる肥沃な農耕地帯への憧れ。彼等とってこの地は魅力的です。領土を約束すれば、孤高の民といわれる彼等の中にも喜んで我が帝国に下る者たちがいるでしょう。そして二つ目」
マリウスが二本目の指を立てた。
「ダナーン聖公国の西にはファズム王国が広がっている」
「――ファズム王国……、だがあの国は……」
禍禍しい響きに、ジブリアンはまずい酒を一口飲んだ。
「吟遊詩人などは、悪霊の跋扈したる国など唄いますがね、そんなもの迷信です。確かに彼の国には我らに理解できない風習も多いでしょう。ですがね、国王を祭司として頂点に据えた単なる祭祀国家にすぎません。国が違えば信じるものも違う。それが我等の生活とかけ離れているから、理解できずに恐れるだけで、それを面白おかしく話して儲けるのが吟遊詩人たちの仕事ですからね。彼等の話しに嘘はないが、それを真実だと信じるのは早計すぎる。彼の国で産出される鉄は我が帝国の軍備を拡張するために役立つ。ファズムに進攻するためにも、我が帝国とファズムの間に広がるこの土地を手に入れることは重要なのですよ」
「だが私は戦は嫌いだ。むろん幼い頃は王宮を訪れる吟遊詩人たちが唄う英雄譚に胸を熱くし、自らも彼等に唄われ人人の記憶に残るような英雄になりたいと願ったこともあった。だが現実はどうだ? 戦など野蛮なだけだ。大地に流された血の、むせかえるようなあのにおい。斬り捨てられたままとなった死体から漂う腐臭。兵士たちの断末魔の叫び。兵士に犯され泣き叫ぶ女子どもたちの声。奪略に喜ぶ兵士たちの下卑た笑い声。私はもう何も見たくも聴きたくもない」
言ってジブリアンは両手で顔を覆った。
「とは言え貴方は勅命をいただいた。総大将としてダナーン聖公国を攻め滅ぼすとね。陛下は自らの息子であろうと容赦がない。この戦に失敗すれば貴方に罰をくだされるでしょうね」
「そうだ、退くも進むも私にとっては地獄だ。皇太子の地位などいらない。私はただ、過去の偉大な文人たちの記した物語や叙事詩、哲学に親しむ穏やかな生活がしたいだけなんだ」
両肘を卓子について、ジブリアンは嗚咽を漏らした。
「存じていますよ。貴方のお心は」
ジブリアンは指を開いて、その間からマリウスのことを見た。
マリウスと目が合う。マリウスはシブリアンに笑いかけ、二杯目の酒を煽った。
「だから私がここにいるのです。私は貴方の姉上から貴方のことを頼まれた。貴方のことを絶対に勝たせてみせます。だから明日のことは考えず、安心してお休みください」
「ああ」
ジブリアンは頷いた。
「酒はここにおいて行きます。もし眠れないようでしたらお召し上がりください。くれぐれも深酒には気をつけて」
マリウスが天幕を出て行った。